ICUにおける終末期医療で「正しい」とは何か?
最近の世の中の風潮は少し怖い。
「高齢者への無駄な医療を控えろ!」「若者の金を奪う高齢者や政府は悪だ!」このような流れである。
私も現役世代の医師として、税負担や高齢医療の問題は痛いほど実感しているが、果たしてその矛先は高齢者や政府に向かうべきものなのだろうか。
高齢者は皆お金があり裕福で幸せな老後を過ごしているのだろうか?病や死に恐怖し日々できる事が少なくなる状況で不安を抱えている方も多い。彼らは弱者である。人間にとって最も重要な財産は時間だ。どんなお金持ちにも同様に時間は過ぎる。いくら資産があっても90歳を越えたウォーレンバフェットになりたいであろうか?
高齢者からしたら、若者は残された時間という重要な資産を持った絶対的権力者なのかもしれない。彼らにとって恐怖の対象かもしれない。そして、いつか若者は高齢者になり自分たちが弱者になった時に、多額の年金と蓄えた資産を必死で守ろうとして新しい若者に怯えるのだ。
こんな名言がある。「人間は誰しも、自分が信じることだけは正しいと思い込んでいる。」
個人それぞれに「正しい」ものがある。それを信じることは悪いことではない。しかし、それが万人に共通するとは限らない。
救急現場では自殺企図患者をよく目にするが、彼らはよく「生きるのが辛いから死んだ方がマシだ!」と言う。我々からしたら「死ぬことより辛いことは無いし、死ねるくらいの勇気やパワーがあれば生きるためになんでもできるのではないか?」と思ってしまう。普通の精神状態の人に聞いたら、ほぼ大半が私たちの意見を「正しい」と言うだろう。しかし自殺企図患者に我々の気持ちは理解できない。彼らは自分たちの考えが当たり前の「正しいこと」と思っているからだ。
自分の正しいと思うことを周りにも共有、強制したくなる時があるが、これは非常に危険な時がある。一定数同じ意見を持った人間が集まり自分たちの「正しい」を振りかざすと、それは残りの少数派であったり、ユニークな考え方の個人を潰し、傷つけることにつながる。
ナチスドイツではかつて障害者を安楽死の名の下に大量虐殺した過去があったそうだ。外国だけの話ではない。障害を持って生まれる人間は不幸だとして、かつて日本でも優生保護法という制度がった。これはほんの20数年前まで実在していたのだ。今ならこれらが危険な考え方と誰もが思うだろうが、1950年頃にはこれが日本でも「正しい」考え方であった。
「正しい」と一度思い込むとこれを変えるのは容易ではない。一度解決した問題を再び蒸し返すことほど効率の悪いことはないからだ。人間の脳は非常に効率が良い。
最近私がICUで悩むのは、救命困難になった患者のその後の対応についてである。医学的には救命の見込みがない状況でも、突然のことに家族の精神的な受け入れが困難な状況がある。この場合「なんとか命だけでも助かってほしい!延命治療を続けてほしい!」とおっしゃる家族も多い。
しかし、現在の医療ではこのような家族を「物分かりの悪い家族」とする風潮があり、これが怖い。
人間というのは他人の不幸に同情こそすれ、まさか自分がそうなるとまでは思えない。「一分一秒でも命をもたしてほしい!見込みが少なく厳しい状況でも奇跡を信じたい!」愛する家族の一大事において、これは至って普通の感情である。もちろんそこに、年齢は関係ない。小さな子供でなくとも、高齢の自分の親や祖父母でもそのような感情を持つことの何がおかしいだろうか?
「80.90歳でもう寿命なんだから、助からなくても当然だよ!前もって覚悟しといてよ!」という考えは、日々の業務と、溢れる患者で疲弊した医療者側の一般的な考えに照らし合わせた「正しい」でしかない。家族にとっては受け入れ難い内容の可能性もある。
上記を踏まえて重要だと思うことが2つある。
1つは自分たちの「正しい」を強制しないこと。
2つ目は本人や家族にとってのゴールを明確し、そこから「正しい」を決めること
1つ目に関して
我々は医療のプロであり、専門でない家族や患者本人に適切な医療情報の提供やアドバイスをする必要がある。しかしここで、自分の意見を強制してはいけない。医療には不確実性の要素が大きい。自分たちの予想がはずれ、いい方にも悪い方にも患者の状況が変化する事はよくある。よって、自分の予想や考え方を過信したり断定し過ぎないことが重要だ。これによって相手に不信感を与えたり、トラブルになることはよくある。少しでも助かる可能性があるなら、それを信じる家族の気持ちを踏み躙り治療を中断したり手を抜いてはいけない。
ある程度明確に医学的な情報が揃ったり、臓器不全の進行が進んだりと言う状況でなければ、自分の予想や都合で治療を決定してはいけない。
では家族が希望すれば、医学的に妥当性の無いことでもなんでもやり続けるのか?と言う疑問が出てくる。
それも間違いだ。首が切断された状態で家族に蘇生を希望されても施行する医療従事者はいないだろう。それと同じである。一般的に医学の妥当性に反する治療までは行う必要はない。適切な治療を行なっても原病の進行や敗血症等で、徐々に血圧低下して心肺停止になった状態では蘇生の適応はない。
こういった状況では延命治療を希望されていた方でも、前もってきちんと家族に説明し、無益な胸骨圧迫などの不要な侵襲は避けるべきである。できることならその兆候を早めに家族に伝え、残りの時間を有効に使ってもらった方が良い。突然の急変では蘇生行為を行わざる得ない場合もあるが、そうでない場合には、蘇生しても医学的に見込みがないことを伝えた上で、しっかりとした理解が得られれば蘇生を行わず最後の時間を穏やかに過ごしてもらう事が妥当だ。
2つ目に関して
家族は延命治療か死かの二択しかイメージ出来ていない事が多い。
機械に繋いで延命をすることが、どれほど本人に苦痛になったり、面会時間を制限してしまうかなどの細かな情報まで理解している方は少ないのではないだろうか。
家族はほとんどが医療においてはプロではない。そして我々はプロである。医療の適応や妥当性の情報に関してはこちらが多くを把握している。その中でどの治療を、どこまでやるか?これを家族や本人の考え方を考慮して適切に提案していくことが何より重要である。
家族のゴールが、一分一秒でも長く本人と一緒にいることだとする。
確かにECMOや人工呼吸器を装着すれば、時間稼ぎはできるかもしれない。しかし、肝心のゴールである家族との時間はほとんど稼げないだろう。ICUで機械に囲まれて孤独の中で患者は命をなくしていくかもしれない。ICUを出て一般病棟で苦痛の緩和やコミュニケーションを取れる環境で穏やかに過ごすにはどうするかを提案する方が得策かもしれない。麻薬などの薬をうまく使うことで、機械の補助を借りなくても、長い時間では無いかもしれないが穏やかな最後の時間を過ごせることもある。本人や家族の思いを詳しく聞くことが大事だ。
「死」か「延命治療」の二択なら後者を選ぶ方は多いだろう。
しかし、場合によっては、「死までの時間は短いかもしれないが穏やかな時間」か「苦痛を伴う孤独な延命治療」になる状況もある。これなら前者を選ぶ方が多いはずだ。
蘇生後脳症で意識がない状況では、人工呼吸などの治療は逆に苦痛を伴わないかもしれない。家族が気管チューブを可哀想と思わなければそのまま過ごしても良いし、可哀想と思うなら抜いてあげることを提案しても良い。
同じ病態でも、状況に応じて対応を変える必要がある。
このように家族や本人とよく話し、考え方を理解した上で自分たちのとってでなく、彼らにとって「正しい」ものはないかを、医学的な妥当性の範囲内で考える事が大事である。