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スキーの思い出をつらつらと

北京オリンピックが始まりましたね。
コロナ禍の中、東京オリンピック同様、アスリートたちが実力を発揮し、
パフォーマンスを見せてくれるのでしょう。

 さて、知っている人は知っている。
知らない人は知らない。当たり前。

  私は北海道育ちです。
北京オリンピックで思い出した
スキーの思い出をつらつら書いてみます。

 その他の思い出とともに。
  
 私が父の転勤で、九州から北海道に渡ったのは、小学校に上がる直前でした。
両親と姉と私と弟。
九州から列車を乗り継ぎ、
親戚に会ったりしながら北上し
今はない青函連絡船に乗り
北海道に渡りました。

 最初の地は函館近くの小さな町。
小学校の入学式は猛吹雪でした。

 母と弟と歩いて行っていましたが、
途中で弟は泣き出し、途中で車に乗せてもらったのだったか。

 入学してすぐに今度は渡島地方の町に引っ越しました。

そうです。スキーでしたね。

 その町はそれほど雪は降らないところでした。
小学校の授業にはスキーはありましたが
それほど熱心ではなかったように思います。

 それから小学校6年の時に引っ越したところは、
今度は豪雪で有名なところでした。
 積雪が3mは普通でした。

 山奥の地で、小さな学校は小学校中学校一緒で
私たちの学年は男女合わせて21人でした。

 ある年には 雪が降り続き
電線をまたげるくらい積雪になったことがあります。
 冬は毎日の雪かきと、
屋根の雪下ろしが大変でした。


 そして学校の裏山が恰好のスキー場でした。
ほんの小さな山なのです。
でも、電気もついていて夜でも滑ることができました。

 母はスキー靴に雪が入らないように
毛糸で脚絆を編んでくれました。

 特記すべきは、友達がみんなスキーが上手だったこと。


 私のような転勤してきたものではなく、
その地に育った友達は本当に上手でした。

 リフトなんかありませんから、
スキーを履いたまま昇っては、自由自在に滑り降りてくるのです。

 新任でやってきたエラそうな国語教師は、
スキー初心者から練習を重ねて
スキー検定2級をあっという間に取って
みんなから一目置かれることになりました。


 スキー遠足というものがありました。
スキーで山をいくつも越えて行きます。

 あまり上手ではなかった私は
途中何度転んだかわかりません。
必死に付いていったのでした。

 大人たちは雪の山の中にわなを仕掛け
ウサギを獲っていました。
 ウサギ汁にした?いやあどうだったか。

 
中学校の卒業記念に
全員でニセコにスキーに行ったのが楽しかったです。

ニセコに近かったのです。
今やここら辺はすごい観光地になっていますね。
時々ニュースで見ます。


 高校でも、スキーの授業はありました。
列車通学していたのですが、
スキーをどうやって持って行ったのだろう。
持っていった記憶はないのです。

 体育教師は転倒して足を骨折。
治って復帰してすぐ、また転倒して骨折して、
みんなから「またあ」と言われておりました。


 スキー大会というものがありました。
駅裏にあったスキー場。
 (以前その街を訪れた時、そのスキー場はまだあり懐かしかったです)
 
 下手な私も選手として出なければならず、
スタートしてすぐに転倒。
はい、終了でしたね。

 スキー場には茶店があり、
熱い粕汁が人気でした。
粕汁といっても、麹のではなく、粕を溶かして砂糖を入れたものです。
温まりました。


 それからはあまりスキーをしてませんね。
関西に来てから一度だけ人工スキー場に行ったことがあります。

 滑られるかなと思いましたが、
何とかターンはできました。
 身体が覚えているものですね。

 娘はスノボをしておりました。
でも、ウィンタースポーツは下火らしいですね。
温暖化で、雪も少ないとか。

 良く晴れた日にスキーに行くと
お日様に雪がキラキラし
山の上から
一面の白い世界と青い空を見ながら滑るのは
とても気持ちが良かったことを思い出しています。

ここでも年に何回かは雪がうっすらと積もります。

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