私の筑豊 ~新聞より
日付を記録していなくて、いつの新聞だったか。土門拳さんの写真集「筑豊のこどもたち」を紹介していた。生活のためにボタ山で石炭を拾う少年、廃屋のような炭鉱住宅で暮らす幼い姉妹・・・。
60年前の福岡県・筑豊地域の炭鉱の子どもたちを写した写真集である。エネルギー政策は石炭から石油に移り、多くの炭鉱が閉山となり、大勢の失業者が溢れていた。貧窮のどん底にいた子どもたち。土門は炭鉱閉山の悲惨な状況を社会に訴えようとしたという。
私は筑豊の生まれである。父親は炭鉱に勤めており、現場で働いてはいなかったが炭住に住んでいた。6歳でそこを離れたので記憶は確かではない。しかし、何度も見返した昔の写真には炭鉱の高い煙突があり、その写真の風景は鮮明に残っている。
時々炭鉱では事故が起こった。母が「また事故だって」と言ったその表情もかすかに覚えている。
私たちきょうだいは父親に連れられて炭鉱の銭湯に通った。父は姉を浴槽につからせた。目を離した瞬間に姉がブクブクと浴槽に沈んで、父はあわてて拾い上げた。その顛末は、その後何回も家族の歴史として語られたものだった。
計算してみると、写真集の出た1960年はすでに私たち家族は父の転勤先の北海道に引っ越していた。もちろん私は小さかったので、当時何もわかっていなかったが、写真集にある貧困の様子は見ていないような気がする。
あの頃はみな貧乏だった。しかし父は現場ではなかった。閉山して仕事がなければ炭鉱で働いていたひと、そして家族子どもたちは困窮していただろう。閉山後だったのだろうか。
新聞記事にある何枚かの写真。その子どもたちの表情に胸が詰まる。写真は写真以上のものを見せる。
九州に戻り晩年住んだ両親の家の近くにはボタ山がある。そのボタ山は長い年月の間に、草が生い茂る「緑の山」となっている。
見出し写真は、ボタ山(緑の山)の近く。奥に流れる遠賀川。