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『SHINOGRAPHIA』所収「流れよわが涙、と彼女は言う――ストレイライト『VS』における愛と真理、あるいは読むことへのアプローチ――」 全文公開
・まえがき
去る2024年6月23日、シャニマスのオンリーイベントSSF07に私は既に使っていないハンドルネームの名義で『SHINOGRAPHIA』という文芸合同誌を出しました。書き手は14人集まり、当日は60部がほぼ30分で完売、オンライン販売の20部も完売と、主宰・書き手冥利に尽きるとともに執筆者と読者の皆様に感謝を既に申し上げた次第です。
今日『SHINOGRAPHIA』の寄稿者の人と話してたんですが、どうやら企画が立ち上がってちょうど一年ほど経つらしいです。マジで今年はこの雑誌を出したこと以外なんの記憶も実績もない。最良の書き手であり読み手である岡山ディヴィジョンさんの雑誌についての興奮が表れたnoteも大変うれしかったですね。
『SHINOGRAPHIA』企画立ち上げ一周年記念レトロスペクティヴということで、私の執筆したストレイライト論を全文無料公開しようと思います。いや、ぶっちゃけレトロスペクティヴはあとづけで、これは元々やろうと思っていたことなのですが……。というのも、私は『SHINOGRAPHIA』でいったん完全に精根尽き果ててしまいました。雑誌のトータルプロデュースもさることながら、この原稿でシャニマスのみならず批評で言いたいことをほとんどすべて言い切ってしまったような気さえしています。これが80人の人にしか読まれないのはなんだか寂しい気もするので、供養がてらアップします。ほぼ誌面掲載バージョン、ノーカットでお届けします。もう私はシャニマスをやっていませんが、確かにこの文章は私がシャニマスとともに過ごした4年間の青春の血と汗と涙の痕跡だと心から胸を張って言えます。それでは、どうぞ。
Opening Chapter. 友愛のつまらない定義
それゆえ、われわれは語ろうとした瞬間から陳腐になってしまうものごとについて、語り始めなければならないだろう。あなたにとってかけがえのないことというのは、往々にして他人からすればどうでもよいものである。しかし、「なんでもよく、どうでもよい」ものの中に宿る卓越性をこそ、われわれは何よりも愛してきたのではなかったか。「なんでもよく、どうでもよい」ものが置換不可能になるパラドックスが成り立ってしまう瞬間を、われわれは常に遍在するポルノに見出してきた。真理のジャンク化とポルノ化はとどまることを知らない。いつも新しくてカワイイものは、それよりも新しいというだけで――それ以前にあったカワイイものよりもカワイイことにおいて卓越しているわけではないというのに――より高速に消費される。かつてジャン・ボードリヤールは、「シミュラークル」が単なる擬制であることを越え出てしまうひとつの概念体系であり、しかし一方で真理というものがとりわけ社会主義という「社会体」においては一種の構造に過ぎなくなってしまったことについて苦々しげに記述している。
われわれは常にこんな立場にある。つまりわれわれのどんな社会も、衰えつつある実在や権力、社会体(ル・ソシアル)そのものの喪の作業に立ち向かうすべを知らない。それらを人為的に再燃焼して、われわれはそれからまぬがれようとしている。おそらく社会主義を当てはめれば、けりはつくだろう。思いがけぬねじれ、歴史的なアイロニーでさえないアイロニーで、社会体の死が社会主義を浮かび上がらせるであろう。ちょうど神の死が宗教を浮上させたように。[1]
ボードリヤールにとっての「社会主義」(つまり、二〇二〇年代前半を生きるわれわれにあってそれは白痴の美女があられもない姿で奇形の頭部をした男性に性的なアピールをするSNS上のポルノ画像と言い換えてもいい)は、一九八〇年代当時でさえその反復の反復という形でしか立ち現れないところに特有の貧しさがあったと見られる。われわれにとってのポルノの横溢も似たような形でしか現象しえないだろう。要するに、われわれはヴァーチャルなレベルで言えば、いつも違う相手とセックスできて、ポルノの内実に含まれている一ミリの真実は捨象され、そしてあるポルノの不在はあるポルノの存在を意味する。社会主義の変数に入れ替わったのは白痴の美女の女性器なのである。ポルノはあなたにこう言うのだ。「私だけのプロデューサーなら、私のためだけに首を吊って死んでくれるよね?」と! こう言ってしまうとあまりにもグロテスクで身も蓋もないと思う向きもあるかもしれない。しかし、ポルノと化した真理を捨て去らないためには、そこで縊死してしまうのではなく、ポルノとともに生きなければならないのだ。そしてわれわれがこのジャンクまみれの世界を生き残る手立ては、ポルノに内在する真理、あるいはポルノそのものである真理を掴み取ることしかない。われわれが今からお見せするのは、『アイドルマスターシャイニーカラーズ』というポルノそのものが掴み取ろうとしている真理と愛をあなたにも分有する、その道具立てと技法である。恐らくその端緒は、ストレイライトにおいて見出される。さらに言えば、この雑誌に載っている十数名の書き手の、そしてこれを読んでいるあなたの中に一人ずつ、一ユニットずつに真実の血潮は流れ込んでいる。われわれにとってはたまたまストレイライトだったものが、ある者にとっては七草にちかであったり、ある者にとってはノクチルだったりすることもあるだろう。肝要なのは、シャニマスというタイトルに潜む一貫性と差異を適切に選び取り、なおかつそこに自分のものだと思うしかないような真理をすくい上げることである。われわれの好むものがポルノでしかないとして、何故われわれはポルノを愛さずにはいられないのだろうか?
一方、われわれがシャニマス――いちソーシャルゲームの固有名を出すまでもなく、大塚英志的「正道」のサブカルチャー以後のネットミームにまみれたテン年代以降のオタクカルチャーであればなんでもよいのかもしれないが――を語る際に引き受けざるを得ない「ばかばかしさ」について、言葉を尽くすべきときがやってきている。それは二十年代の今を生きる括弧つきの「オタク」たちが無謬的にソシャゲの「萌え」に熱狂しながら目を背け続けてきたものであり、彼らは東浩紀が『機動戦艦ナデシコ』や『うる星やつら ビューティフル・ドリーマー』を語るときに見せるようなはにかみをさえ忘却の彼方に葬ろうとしている。これはあまり好ましい状況ではない。美少女ゲームやノベルゲームの遺産を引き継いだシャニマス、そしてその中のストレイライトについて語ろうという姿勢それ自体が、そういった忘却に無批判的であることを許す状況ではもはや決してないということだ。「萌え」という今となっては古めかしい情動のみならず、人間の高潔さや超越の片鱗を垣間見せるシャニマスを直接称揚するフェーズはとうに過ぎていて、今われわれがシャニマス、あるいはストレイライトを語るときに遭遇する困難である一種の滑稽さやグロテスクをシャニマスに内在的な方法で語ることが現在このコンテンツに求められている語りであることを今更疑う向きはそうないだろう。
われわれがシャニマスを語るときに何故それが外的には徹底して無産的なのかといえば、それは往々にして極端なディレッタントや盲目的な語りに終始してしまっているためである。と言えば、どうやら問題は単純そうだが、実際に起こっている事態はわれわれオタクが思うより入り組んでいる。今この文章を読んでいるあなたは、シャニマスを初めて起動し、「運命の出会いガシャ」でリセマラし、W.I.N.Gに何度も負けていく中で、恐らくこの子とは何かを共有できるに違いない、あるいはこの子から何かを受け取れるかもしれない、という啓示じみた予感を感じているからシャニマスをプレイしていることだろう。シャニマスがわれわれの心をとらえて離さないのは、ひとつには戯画性とリアリティの双方が半々ではなくアイドルに応じて微調整されているからである。例えば月岡恋鐘に魅せられたオタクが七草にちかに同程度の思い入れを抱いたり、イルミネーションスターズのコンセプトに共感している八宮めぐるの担当が斑鳩ルカにも熱情を噴出させたり、などといった事態は、ありえなくはないが(コミュを読んでいれば読んでいるほど)考え難い。それは彼女らがまったく違った人間性であるからなのではなく、リアリティラインが同一タイトルのゲームの中でうまく調整されているからなのである。そういった微妙に移動するカリカチュアと現実性の間を自由に行き来することによって、オタクはその中にひとつの一貫性を見出したり、あるいは同一性に担保された差異を発見したりする。優れた哲学書が差異の戯れの奥底に秘められた同一性を宿していることと簡単に類比することはできないにせよ、シャニマスにおいてとりわけ問題となるのは同一性=一貫性と差異との間の内包/外延関係であることは、このゲームに愛情を持ってプレイしている人々ならば肯われるところだろう。
われわれが真剣にシャニマスについて言葉を尽くせば尽くすほどに、その様子が「ばかばかしい」ものとなるディレンマは、シミュラークルの廃墟となったノベルゲーム的ソーシャルゲームが胚胎する避けられない事実であり、当然この論考もそういった誹りを免れるものではない。しかし、われわれがもう一度、あるいははじめてこの滑稽さと向き合うことで自らがピエロであることの責任の一端を担うことは決して無益ではないだろう。ストレイライトの軌跡がわれわれに見せる景色は、常に地に足のついた愛と倫理であることは疑いがない。そこからさらに一歩進んで、われわれは無謬的であることにどこかで折り合いをつけなければならない。身も蓋もないことを言ってしまえば、われわれはつねにすでに「恥ずかしい」存在としてしかオタクであることを許されないのである。しかし、そういった恥辱にまみれた生のみが放つ輝きを信じていなければ、われわれはオタクをやっていないはずだ。ストレイライトというアイドルは、無謬的ではない仕方で真理を掴みとる技法を教えてくれるとわれわれは確信している。それは悪しき相対主義ではなく、無数のプロセスから一なる真理を把捉するための触媒としてのストレイライトであると同時に、シャニマスというゲームに込められた秘密の一貫性の中で浮上する、それ自体が再演されるべき一回きりの差異としてのストレイライトであり、彼女らが見せる様々な顔のひとつひとつが反復されようのない真理である。そして、真理はあらゆる二元論を超え出た先に存在する。弁証法でも否定神学でも到達しえない真理を探す旅こそ、私たちが向かうべき終着点なのである。
ストレイライトの『VS』を語るに当たって、われわれはどれだけ適切な語彙を持っているだろうか? まずそれがまぎれもないポルノであり、「ばかばかしい」ものであると同時に友愛という真理を孕むものとしてコミュで描かれ切らない余白を余白として留め置きつつ、確実にそこに何かがあるという仕方で語られなければならない。彼女ら三人の織り成すドラマの潜勢力と軌跡を描出するとともに、本編の持つ力が棄損されない形で『VS』を思考しなければならない。『VS』で中心となるのは、「誰にも負けない、互いに負けない」というストレイライトの根本命題、つまり闘争的=二元論的(デュエル)な形式が最終的に友愛の地平でご破算になることの美学であり、試合が放棄されることの美しさである。和泉愛依の涙が、芹沢あさひの「私が勝つのに」が、黛冬優子の捨て台詞が、ある特有の圏域で不気味な光を放つそのきらめきをあなたは知っているだろうか。われわれが語ろうとするたびごとに陳腐になってしまうことについて、それゆえ今こそ語らなければならない。その語ろうとすることとは、つまり友愛についてであり、つまり真理についてである。ストレイライトの中で閉じられる友愛と真理がポルノを越え出る瞬間を見届けることで、われわれがシャニマスに対して抱いている――こういった文章を書くことさえにもつきまとうような――ある種の「うしろめたさ」を解消せずにおいたまま「何も書けない」という地平を新たに拓くことが可能になるとわれわれは信じている。
ストレイライトがわれわれに語ることが友愛と真理であるとして、しかし友愛と真理とは一体なんなのかという本論考における語の射程を論が進むごとに明らかになることに期待こそすれある程度明確にしておく必要があるだろう。友愛とは、血のつながりのない他人のために思いやりと高潔さから涙を流すことができる倫理であり、真理とはひとつの関係において開示されることによってその関係がまるごとひっくり返ってしまう価値判断のことであると少なくとも本論考で用いる分にはこう定義してしまおう。友愛のために隣人を抱き締められる感性を愛依も冬優子も持っていて、その二人があさひの天衣無縫ぶりを包み込む。『VS』であさひが怪我をしてユニット内パフォーマンス対決に出られなくなったとしても迷いなくストレイライトとしての出場を決めた愛依と冬優子が何のためにその決断をしたのかと言えば、それはあさひのためである。それはプライドと美学に優先する。あさひが自分たちに「負けたくない」と――「私が勝つのに」とまで言わしめて――思わせることが、彼女らにとっての二人でステージに上がる意味でもあった。そして真理について語るときはそのうちやってくるだろう。その瞬間とは言うまでもなく愛依が冬優子に泣きながら「ありがとう」と言う場面であり、そしてそこでは全ての二項対立は台無しになり、そこでしか開示されえない真理が開示されることになる。
思考せよ!と呼ぶ声が聞こえる。あるいは、インターネットに淫せよ!とも。それらは矛盾しない。しかしわれわれはそれに逆らおう。こう叫ぶのだ。われわれは愛する、と!
Chapter 1. 「誰よりもカッコよく」――和泉愛依のレゾンデートル
ストレイライトが至上命題として掲げる、「誰にも負けない、互いに負けない」というテーゼは誰が見ても定義不良である。何故となれば、「勝つ」「負ける」という評価軸が一体何によって実際に定量化できるのかが不明瞭だからである。歌のうまさだろうか?ダンスの巧みさだろうか?しかし、抜群の才能を見せるあさひに冬優子や愛依が「勝負」のために勝つためならばなんでもするといったような形で小細工をしているようには見えない。三人が同じステージで自分のやるべきことをやることが、すなわち隣以上に煌めくことを意味している。『VS』内でパフォーマンスバトルの舞台となる『Stray Versus』では、観客の評価が点数となるため、一見その定量性の問題をクリアしているように見える。それでは、和泉愛依が望んだこの決着は、彼女にとって納得の行くものだったのだろうか、と改めて問われなければならない。
愛依はオープニング「HAZE」で、スタッフの話題に自分の名前が上がらないのを見てショックを受ける。正直な愛依が一時的にであれ「嘘をついてしまった」ことには本人の良心が痛むところでもあった。あさひのパフォーマンスを観る『Amazing perform dancers』から、自分の悔しいという感情に気づく。愛依は、冬優子に負けず劣らず高い倫理を持ち合わせている。しかし、このイベントコミュに至るまではあさひと冬優子の添え物に甘んじていた(そして本人もそれでいいと思っていた)彼女が、これまで積み重ねてきた努力や三人の絆を再確認すればするほどにプライドが自分の中にわだかまっていたことに気づく。彼女が乗り越えるべきアイデンティティの問題とは、「きちんと結果が目に見える形で負ける」ことによってはじめて、そして再び冬優子とあさひと同じ舞台に立って認められることである。ストレイライトにとって、認められることとはファンの数やエゴサーチの言及ではない。他の誰からでもなくお互いがお互いに認め合うことであり、それこそが各々の決闘場としてのステージを作り上げることにもなる。そういった意味で、第三話の「REALIZATION」におけるあさひのパフォーマンスを観て「悔しい」と思った愛依の心の動きは、他の二人と闘うステージに足を踏み入れたことの証拠でもある。それゆえ、ストレイライトにおける「勝負」については以下のことが言えるだろう。ファンの数でも、歓声の大きさでもなく、「こいつの隣で歌って踊りたい」と互いに思わせられるかどうかこそがストレイライトの「勝負」である。だからこそあさひがいなくても冬優子と愛依は『Stray Versus』に出場を決めた――「ふたりでもストレイライト」であり、そこにいないあさひの隣で「和泉愛依」かつ「黛冬優子」であるために。
しかし他方で、愛依の存在理由は『VS』にかんし、さらに別の角度から説明できるように思われる。第五話「DECLARATION」で「うちは自分の戦いがしたい」とこぼすように、愛依にとって、「あさひや冬優子の次」というポジションに甘んじることはすでに屈辱となっていた。自分と闘うということは、自らの限界を自らで越えるような努力を「和泉愛依」に課すということだった。愛依が最終的にこの『VS』という一連のシナリオで成し遂げようとしたことはまさしく「自分と闘って勝つ」ということであって、冬優子やその場にはいないあさひをステップに「嫌なカンジ」を脱ぎ去ることである。「冬優子ちゃん/戦って/うちと」と決然とした調子で述べられる彼女の「果たし状」に、冬優子も全力でぶつかることを約束する。その闘いの結果実現されたのは、三人のより強い紐帯としてのストレイライトであり、単なるメタファーに留まらない血縁的結びつきである。「ふたりとうちの距離、はっきり分かって」と愛依が言うように、ストレイライトの中で特に才能という点であさひのような卓越も、冬優子のような計算高さも持ち合わせていないことから水をあけられている愛依が二人と並ぶために必要だったのは、はからずも彼女らに「負ける」ことである。「カッコよさ」という曖昧な評価のみであさひや冬優子に勝つことが、どれだけ愛依にとって実現可能だっただろうか?そして、勝負に負けるということが、愛依の中でほとんど理想的な形でストレイライトの中に自らを定位するファクターであることに、愛依が一番よく気づいていたのではなかったか。
このイベントコミュの最大のポイントである最終話「『I WIN』」についてはChapter.4以降に譲るとして、愛依がストレイライトの中で果たしてきた役割が、『VS』ではどのように表象されているのか、もう少し詳しく掘り下げてみよう。Opening Chapterでも述べたように、あさひが怪我をして『Stray Versus』に出場することがかなわなかったとしても二人はストレイライトとして出場することを決めた。その際、冬優子はプロデューサーの気遣いを無用として出場の意志を即断する。しかし、愛依は『Stray Versus』の「グループ内でパフォーマンスに勝敗をつける」という意義よりも「嫌なカンジ」を乗り越えるために「自分の戦いをしたい」という気持ちを優先した結果、ためらいが覗く口ぶりを余儀なく要請される。そして出場を決め、冬優子に挑戦状を叩きつけるという一連の流れは、あさひや冬優子が賞賛されることを無邪気に喜び、また冬優子の背中を押すことに役割として留まりがちだった愛依が自分自身の殻を破る瞬間であると同時に、愛依が自らの存在理由を自らの手で再定義する場面である。第六話「CALM BEFORE…」で「愛依サマ」としてのペルソナを被って客の前で啖呵を切るシーンは、「和泉愛依」がそれ自体としてステージ上で煌めいている箇所であるとともに、冬優子と決闘をするという判断を取った時点で、愛依は自分に打ち勝つことができている。
ある人格が人間の姿を取って存在しているとき、それが確実にかけがえのないものであると何によって定義できるだろうか。それは魂の高潔さだという人もいるかもしれないし、あるいは「これは、私である」という自己同定によって可能になるという人もいるだろう。和泉愛依の自らのレゾンデートルの構築は、芹沢あさひという空虚や黛冬優子というひとつの自明さによって相対的に獲得されるものだという指摘は、一方でただしく、一方で間違っている。和泉愛依は何者にも頼らず和泉愛依であることが可能であり、「カッコいい」、つまりクールであるというそれだけで彼女は彼女なのである。だが、ストレイライトという血縁関係を取り結ぶに当たって、愛依は取り換えの効かない中間項として機能する。あさひと冬優子の間で、ストレイライトというじゃじゃ馬を制御するのは愛依であり、あさひでも冬優子でもない。『VS』において愛依が取った戦略、それは彼女が意図していないところで、敗北を繰り込んでなおステージに立とうとする泥臭いアイデンティファイの過程であったのだと言うことができるだろう。
Chapter 2. 芹沢あさひは走る、あるいは不在の現前
芹沢あさひはそれ自体が巨大な虚無である。その証拠に、二〇二三年の十月末に更新されたストレイライトのイベントコミュ『Wintermute, dawn』まで、確実にこれが「芹沢あさひ」の文体であると言うに差し支えない充実を伴ったテキストはイベントコミュ内に実装されてこなかった。彼女は(もしかしたら「芹沢あさひ担当」でさえ)あらゆる描写をすり抜けてしまう。それは彼女があまりにも自由で天衣無縫であるからという無邪気さに全てが帰せられるのではない――もちろん芹沢あさひの自由や天衣無縫ぶりもその理由の一端はあるのだが。彼女の記述不可能性、それは芹沢あさひという存在が「何もない」という不在の現前としてしかわれわれの目の前に立ち現われることがないからである。
『VS』第二話の「DEMAND」で、あさひは『Stray Versus』への出場を二つ返事で承諾する。あまりにもあっけらかんとした彼女は、闘争によって動き、闘争を(それが三人の内部で破綻すること込みで)結論とするストレイライトというグループにあって、あまりにも闘いを無邪気に内面化している。そこに葛藤や屈託はない。一方で、第四話の「ACCUMULATION」で負った捻挫の傷に、「あさひが『Stray Versus』に出られなくなった」という以外のドラマトゥルギーが付与されることはついにない。しかし、彼女が『Stray Versus』に出ないことによって、あさひの存在感はいやおうなしに増す。「天才」であることの退屈をあさひは持て余しながら、捻挫の片足を引きずって『VS』のステージからは強制的に退場させられているのに、「芹沢あさひ」という存在がシナリオの全体的なトーンを決定してしまっている。
『VS』で芹沢あさひが焦点となるのは、『Amazing perform dancers』への出場においてだろう。あさひの踊る姿を見た愛依が自分自身の「嫌なカンジ」を明確に自覚する重要なシーンでもある。ここであさひは、ステージの上で死ぬダンス・マシーンであるが、それは何故あさひでなければならなかったのか?恐らくだが、それは彼女のパフォーマンスが卓越しているからではない。あさひのパフォーマンスにおいて「何が」技法として確立されているかが問題なのだ。いったん彼女のパフォーマンスを脇に置いて、重要なのはあさひが「ストレイライトの一員」であることである。この一見自明すぎる事実は、ストレイライトの一種の血縁的な関係によって再び裏付けられる。冬優子はあさひが『Stray Versus』に出場できなくなったことに対して、「ふたりでもストレイライト」であり、あさひが出場しないことを彼女の「不戦勝」にしないためにも冬優子と愛依は出場することを選ぶ。この場面で、ストレイライトはある部分において血を分けているとしか言いようのない紐帯で結ばれていることが示される。それは単に「ストレイライトは家族」式の安直なメタファーではなく(そしてこれはメタファーですらない)、アイドルの活動をするにあたってこういった関係性を構築せざるを得ないという形での血縁性なのである。あさひは(そして当然冬優子と愛依も)この関係性に無意識的に気づいている。愛依が良心につっかえて冬優子とあさひに感じた悔しさを打ち明ける第六話「CALM BEFORE…」で、電話で愛依がどうでもいい話をあさひにするシーンは、単にユニットが同じであるという事実を越えて血のつながりすら感じさせる。これもまた本論考で最終的に明らかにしたい真理を含む友愛の形であり、そしてどんなときも友愛は血縁的なつながりを持つのではなく、特有の関係において特有の瞬間に真理が開示されるようにして友愛はわれわれの前に現れるのである。
一方で、芹沢あさひは紛れもなく天才であることはテキストから疑いようもない。もちろんそれを退ける形で「普通の女の子」性を強調する向きもあるが、それはあくまでもステージを降りた後の話であって、ステージ上で踊るあさひが神の寵愛を受けた子どもであることは確実である。あさひがパフォーマンスをするとき、問題になるのはその卓越ぶりではなく、その技法と手段であることに注目しよう。第三話「REALIZATION」の『Amazing perform dancers』で愛依を圧倒したのはその空間掌握だが、ここにも芹沢あさひが空虚であることの証明がある。愛依はあさひのパフォーマンスを見ながら、あさひが「どこも見ていない」、「求められても見ない」ことに気づく。視線が歌と踊りにおいて極めて重要な役割を果たすのは言うまでもない。あさひは「見ない」ことで彼女の空間を充溢させる能力によって、彼女の空虚や虚無をそのままにパフォーマンスを成り立たせることが可能になっている。例えば、三次元アイドルには「レス」という用語がある。これは、アイドルがファンに対して指差しや目線を送ったり、ウィンクをしたりするさまの呼称であり、この「レス」による視線の交換がアイドルとオタクの間で行われることでその空間に意味が充溢する。「あの子は俺を見てくれた」とオタクが言うときに何を自慢しているのかと言えば、それはステージ上の手が届かないアイドルとの間でその二者でしか成り立たない関係性を成り立たせることができたということである(だから、嬉しい)。「ライブ会場」というハレの空間はこの視線の交換によって成立する。そのため、アイドルは多くのオタクの視線を必要とし、そしてオタクは目が合って(あるいは、そう思い込んで)満足するという共犯関係が暗黙裡に成り立っている。しかし、あさひはそういったファンとの共犯関係に背を向け、「見ない」という方法によって空間を作り上げることができる。「音がなくなったときに『トンッ』」とステージを叩いてメリハリをつける描写があるように、あさひは自らの手振りと音のみでステージを作っている。そしてそのステージには「意味」が存在しない。「あの子と俺は目が合った」というようなリアルタイムで生成される意味の過剰さがない。芹沢あさひという巨大な空虚は、ステージにおける曲芸めいた超絶技巧を誰のためでもなく自分のために演じる。彼女のパフォーマンスには、エロスもタナトスもなく、ただ垂れ流されるヴィルトゥオジティのみがある。
芹沢あさひという「何もなさ」は二つに分類できる。ひとつは彼女自身が感情の器であることから、ストレイライトにおいて愛依あるいは冬優子を媒介として、血縁的な友愛を彼女らと築きうる可能性の端緒を担っていること。もうひとつは視線を奪われたパフォーマンスから、意味の生じない「場」そのものとして芹沢あさひというつるりとした存在が立ち現われてくることを示したことである。『VS』における出番は少ないものの、芹沢あさひという不在が持つ存在の確かな手触りは確実に『VS』におけるいくつかある主題のうち、重要なもののひとつを背負っている。
Chapter 3. (Tacet.)黛冬優子がストレイライトそのものである理由について
愛依が敗北を繰り込み乗り越える主体であり、あさひがひとつの巨大なブラックホールであるとしたら、冬優子をどう定義すべきだろうか。誇りと美学の人であり、高い倫理を持ち合わせる彼女のことを、こと『VS』の中で定義づけるとしたらどのようになるだろうか。さしあたって私たちは、黛冬優子のことをある自明性としておこう。自明であるということは、その存在が何によっても支えられることなく、トートロジー的に自己が自己を定義し、ストレイライトという特有の血縁的磁場における基礎をなしているということである。要するに、黛冬優子はストレイライトそのものなのである。この冬優子がすなわちストレイライトであるという飛躍はいかにして可能になるのかについて、愛依とあさひの分析を踏まえた上で論じてみることにしよう。
『VS』における冬優子像を見る前に、ストレイライトの「血縁」性というものが一体なんなのかについて改めて論じておこう。確かに、ストレイライトの三人は血を分けているわけではないから、「血縁」という言葉はあくまでも比喩にとどまる。一方で、『Wintermute, dawn』でステージ袖にいる冬優子があさひにつぶやく「あんたのこと、本当に嫌い」という言葉は、果たして本当に「同じグループで一緒になっただけの他人の三人組」にふさわしい重みなのだろうかという疑問も素朴に喚起しうるだろう。これは愛依があさひと冬優子ばかり持てはやされて「嫌なカンジ」になる様子にも通じている。ストレイライトの三人の間には、奇妙な異物感というかしこりのようなものがずっと横たわっていて、それがいわゆる意味での解決――安直なカタルシスと予定調和のドラマトゥルギー――によって問題が解消されるのではなく、目の前の問題に関しては解決しないか問題に敗北していながら三人の間で「これでよかったのだ」という合意が取り決められることで直面している問題がストレイライトの中で解消される。典型的な例を挙げるなら『Straylight.run()』で、最後冬優子がイカサマのステージでパフォーマンスを披露したところでイカサマに勝てるわけではないが、それでもストレイライトは自分たちの中で自分たちなりに問題を解消している。その中で、血縁的としか言いようのない異物感は、例えば冬優子の姉御肌などといった安易なキャラクター消費として捉えられるべきではない。そうではなく、ストレイライトに常に横たわる違和感、つまり互いが互いに対して「勝負」を仕掛けるというときのある種の遠慮がちな身振りが、血を分けている者同士がなんとなくお互いに感じる疎ましさのようなものを表象=代理しているのだ。これは例えばノクチルであれば他人なりの無遠慮さとして立ち現われるだろうし、実際に血を分けているアルストロメリアの大崎姉妹の間には姉妹の距離の近さと同時に肉親同士がお互いに持つコンプレックスが表れている。ストレイライトは、血を分けているわけではないのに、冬優子のあさひに対する屈折や愛依の二人への眼差しが(そして『Wintermute, dawn』で明らかになったように、あさひでさえもが)異物感を互いの間に挟まなければコミュニケーションが成り立たないという逆説的な血縁性を三人の関係の間で成り立たせている。この「他人同士が血縁的としか言いようのない仕方で運命を共にすること」がストレイライトのコミュに通底するテーマであることは、ここまでの愛依とあさひの分析からも一定程度は明らかになったことだろう。
翻って、冬優子が『VS』において見せる二人への態度は、徹底して傍観者であることが特徴的である。確かに、第二話「DEMAND」で「ファンが望んでるならあいつらを負かせるチャンスを逃すわけはない」と闘争心を覗かせているが、このときの冬優子が意味する「勝負」もまた定義不良である。結局、ストレイライトは「互いに負けない、誰にも負けない」というときの「負ける」「勝つ」が、『Straylight.run()』にしろ『VS』にしろ、ファンからの得票数や審査員の投票によってしか表されていない。だからこそ、最終話「『I WIN』」で愛依に勝った冬優子が愛依に対して取る態度が「出ていくんじゃないわよ、バカ」でしかありえなかったというのもまた必然である(これについてはChapter.4にて詳述)。冬優子は、愛依やあさひ以上に自分が曖昧な価値判断の中で「勝つ」か「負ける」かにこだわる。それは一見すると曖昧な判断のもとでしか自らを同定できない貧しさのようにも映るが、冬優子の持つ人間的な豊かさは別のところにある。その別のところとは、「勝つ」あるいは「負ける」ことを通して冬優子は常に「黛冬優子」という人格を経由したストレイライトがどのように見えているのかをセルフプロデュースの及ぶ範囲で可能な限り行ってしまうという、あさひとは別の卓越としたたかさである。つまるところ、ファンや審査員の投票がなければ、別グループと並んでストレイライトがパフォーマンスをしたところで明確な差が出るわけではない。しかしそれにもかかわらず、冬優子はあくまでも勝ち負けにこだわる。この戦略は非常にリスキーである。そのリスキーさは、全てが定量化され相対化されることによってパフォーマンスや彼女の佇まいに伴う――そしてアイドルが宿命として負うところのものである――ある種の神秘化の座から冬優子を引きずり下ろしかねない。何故ならば、冬優子が「数を稼げば稼ぐほど」、黛冬優子が持つ美学やプライドと数によって生み出された冬優子の幻影は乖離していくからだ。そうやって生み出された幻影のパロディが自分自身であるとともに、そのパロディとしての自分自身のパロディが幻影であり、という無限後退をほかならぬ「ふゆ」と「冬優子」の関係性において再演しているということに彼女自身が薄々勘づいている。しかし、こういったパロディ的再演にしか思われない「黛冬優子」という人格が、予期しない形でストレイライトの美学として立ち現れる瞬間がある。われわれが冬優子について追及すべき点があるとすれば、冬優子の抱えるパロディ的な「ばかばかしさ」がストレイライトにおいて引き受けるべきリアルとなる地点を探り当てることだと言える。
冬優子は『VS』において、もしかするとあさひ以上に周縁化されている。だが、それと同時に『VS』のドラマおよびカタルシスを決定づけるキーパーソンであることもまたこのコミュを読んでいる人ならば容易に肯われるだろう。ストレイライトの解決されない「異物」としての血縁性と冬優子のパロディ性は、『VS』においてどのように浮かび上がってくるのだろうか。冬優子は、第六話「CALM BEFORE…」で、自分のことを認めてもらえないことの忸怩たる思いをぶちまける愛依に対して、心の中で「そんなの、こっちだって同じ」とモノローグする。もしかしたら愛依以上に、冬優子は「ストレイライト」そのものに抱くコンプレックス、そして自分の力量と見え方のギャップに苦しむ人である。ましてや、リーダーだがセンターではないという立ち位置にあって、冬優子の理想と現実の差異は一層際立っている。この「認めてもらえないことの悔しさ」を、冬優子が愛依に寄り添って「私もそうだった」と言葉に出さないことの重みを、われわれは受け止めなければならない。ここで愛依に対する同意を口にしないことが冬優子を単なるパロディとカリカチュアにしない冬優子の美学そのものであると同時に、彼女がストレイライトの真理を担う最重要人物であることの証拠である。このシーンでは物語の焦点は愛依であり、愛依の心情が初めておおっぴらに言葉にされる。しかし、周縁として冬優子が存在することによって、同時に冬優子がストレイライトの中で何を担ってきたのかというのも明らかにされる。ストレイライトが「勝負」という言葉で血を分け、その中で違和感やある種のためらいのようなものを抱えながら、予定調和でない形で物語を成就させていく過程において、いつも冬優子は自らがパロディであることによって血縁性の中における友愛と真理に立ち戻ることを可能にしてきた。そしてストレイライトにおいて冬優子が可能にする友愛と真理は、前者は異物感をその都度解消する(そして新たな異物を関係性の中に持ち込む)ことによって、後者は「勝負」をその結果によって常に事後的なものとして立ち現わさせることによって実現される。冬優子が真実を胚胎するパロディとしてストレイライトの中で振る舞うことによって、彼女だけが開示され得ない秘密を持つのではなく、愛依とあさひに共有し三人の織り成すドラマの中で「ズレ」た真理が開示される。その「ズレ」は、「萌え」とポルノによって薬漬けにされたわれわれが言葉にできるような水準で求めていた帰着ではなく、しかし無意識の形で「欲望されることになっていた」というように事後的に形成される欲望の最も望まれる形式においてわれわれの前に提示されるのである。そしてその欲望のすり替えと発明を真に可能にするのは、ストレイライトの中でただ一人黛冬優子しかいない。本人の持つ誇りと美学がむき出しになるにしろ一行のモノローグで表されるにしろ、ふとした瞬間にまろび出る冬優子のギャグすれすれの真理がわれわれに思いもよらない謎と欲望を示す。そしてその冬優子から示された謎と欲望をわれわれが然るべき形で受け止めたとき、愛依とあさひがいかにストレイライトと冬優子の中でかけがえのないものであるかということも同時に明らかになるのである。
ここまで、『VS』を中心に愛依、あさひ、冬優子がコミュの中でどのような役割を演じるかということを、「勝負」と「血縁性」というタームから読み解くことを試みた。一方、単純にドラマトゥルギーの炸裂という意味で、『Stray Versus』の一部始終を収めた最終話「『I WIN』」の美しさについて言葉を尽くさなければ、『VS』を語ったことにはならないだろう。この最終話によって開示される友愛と真理こそ、シャニマスというゲームが一体最終的にどのような人間像を望むのかということに対する暫定的な回答であるとすら言える。シナリオ本編に髄までしゃぶりつくことによって、われわれが『VS』の後にシャニマスに何を言えるかを明らかにしてみよう。
Chapter 4. 眼差しはいつもあなたに届かない
あなたが狂おしいほどに愛されることを、わたしは願っている。
――アンドレ・ブルトン『狂気の愛』
永遠の存在よ、わたしのまわりに、数かぎりないわたしと同じ人間を集めてください。わたしの告白を彼らが聞くがいいのです。わたしの下劣さに腹をたて、わたしのみじめさに顔を赤くするなら、それもいい。彼らのひとりひとりが、またあなたの足下にきて、おのれの心を、わたしとおなじ率直さをもって開いてみせるがよろしい。そして、「わたしはこの男よりもいい人間だった」といえるものなら、一人でもいってもらいたいのです。
――ジャン=ジャック・ルソー『告白』
『VS』最終話の愛依と冬優子の楽屋における会話は、このシナリオにおける情動の極点であるとともに、シャニマスのすべてのコミュの中でも最も美しいもののひとつに数えられることには疑いがない。しかし、美しいものに対して、「これは、美しいから美しいのだ」と言うのは貧しい。愛依の葛藤に、冬優子の諦念に、われわれはどれほど寄り添うことができるだろうか。そして、『VS』において開示されるべき愛と真理はどのような形を取ってわれわれの前に現れるのだろうか。あらゆるレトリックを越えて、われわれはストレイライトの中で実現している奇蹟についていかほどか言葉を尽くさなければならない。他方で、われわれにシャニマスの側から用意されているテキスト群はあまりにも少ない。愛依が冬優子やその場にいないあさひに向かって嗚咽をこらえながら万感の思いをぶつけ、それに対して冬優子が「出ていくんじゃないわよ、バカ」と苦し紛れにこぼすあの情動の最大値にどのような言葉をやりくりすれば、シャニマスの「テキスト」とは異なる批評的「テクスト」の強度が内在的に担保されるかという問いにわれわれが答えうる回答は限られている。であれば、愛依の冬優子に対する心情の吐露を「告白」の一形態として捉え、文学の助けを借りるとともに、再度あの『Stray Versus』が終わった後の楽屋に風景を戻す一連の運動によって、ストレイライトという友愛と真理の問題系にアクセスすることを試みよう。
Chapter 4-1. 「読み」の三つの水準――「すべて」と「飽和する行間」を撹乱する「テクスト内現実」の裂開
十八世紀を代表する思想家、ジャン=ジャック・ルソーは、最晩年の著作となった『告白』において、自分にこれまで起こったすべてのことを語るという形で自らの文学的生涯を閉じようとした。自伝文学なるものがあるとすれば、それはまさにルソーがひとつのはしりであり、近代的自我が理性の外でどのような言語実践を可能にするかという(ときにルソー自身でさえも思いもよらなかったような)実験的な試みだった。ルソー研究者の淵田(二〇一九)は、『告白』について以下のような見解を示す。
「すべてを語る」ことは、〈すべてを読むこと〉と切り離すことはできない。なぜならば、すべてを語りつつ、同時にすべてを解釈することはルソーにはできないからである。ルソーは「ほんの少しの欠落や空隙」もなく「すべてを語る」という行為を読者に差し出す。[2]
ルソーが要求する「すべてを読め」という命令には、あらかじめテクストに「私が書いたものを私が解釈できる範囲は限られている(のですべてを読者に読んでもらう必要がある)」という了解が織り込み済みのものとして含まれている。ルソー的な「告白」は、細大もらさず「私」に起こったことを読者に伝えることで、「すべてを読んだ読者」という不可能な存在をテクスト外に立ち現わさせる。注意しなければならないのは、これが単に「書かれた私」と「読まれた私」が異なるという素朴な二元論ではなく、「すべて」という最初から達成しえない条件が言説上の主体に繰り込まれていることで、ルソーの想定している読者が『告白』をいかに読み抜こうとも「ジャン=ジャック・ルソー」そのものを理解したことにはならないというある種の屈折がテクスト上にわれわれが『告白』を読む前から存在しているということである。完全な「読み手」をつねにすでに失ったテクストの落とし前は永遠につけられない。
シャニマスのテキストは、ソーシャルゲームにおけるノベルゲームの復権をその存在から主張しているにもかかわらず、過剰な「行間」が存在する。ルソーが「すべてを語る/すべてを読む」と宣言する(あるいは読み手がさせられる)一方で、『VS』の大部分もまた例に漏れず行間の充溢が甚だしい。これはフルボイスによる「間」の問題にのみ帰着させられることではなく、まずもってシャニマスは「文字を読むゲーム」であるために必然的に一次的な「テキスト」と二次的な「テクスト」が生まれる。シャニマスにおいては、ルソーがものした『告白』における「完全な読み手」という空集合が要求されない。それはシャニマスが「すべて」を語るわけでもなければ、最終的にルソーが読み手に責任をなすりつけることによって存在しない「すべてを読む読み手」をあらかじめ想定しているわけでもないからであり、シャニマスが最終的に要求するのは「テキスト外」を読む読み手であるからである。「わたしたちはカメラですから、もしわかりづらいのだとすれば、彼女たち自身が事実そのように生きている/そのようにわかりづらいのだと思います」[3]とライターが言うときの「カメラ」はあくまでも恣意的であり、(ともすれば書き手の意図に反して)「切り取られる」ことによってシャニマスのキャラクターたちは「読まれる」。部分の語りは肥大化することによって読解は可能性の埒外にまで追いやられる。
しかし、『VS』の最終話がこのような「すべてを読め/語れ」というルソー的要請と「カメラ」という言葉で過剰な行間の読解を読み手に要求する「ライター=シャニマスの『著者』」のはざまに位置づけられるのは、愛依が冬優子やあさひに対して抱いている気持ちが吐露される場面であるということ以上に、それらがすべてテキスト上の出来事として現実とは異なるリアリティを獲得しているからである。「和泉愛依」という固有名が一対一対応的な形でディスクールに与えられており、それが「喋っている」あるいは「泣いている」からわれわれは愛依の姿を見て共感から涙を流すのではない。「すべて」が語られているわけでも、行間が飽和するのでもなく、読み手が意識の位置をどこに置けばいいのか分からなくなるという攪乱がまさに『VS』の最終話では起こっている。その攪乱は、現実主義と「深読み」の間で起こる「テキスト内の現実」と位置付けることもできるだろう。「和泉愛依」や「黛冬優子」のような人物が現実にいそうというわけでも、カリカチュアでもなく、テキストの中にそれとして存在する別のリアリティが『VS』においては出現している。蓮實(二〇一四)が「人類は」とあまりにも対象が大きすぎる修辞を用いて、「「テクスト」を読むことが得意でないし、また好きでもないかにみえます」「そのとき起こるのは、「作中人物」という「見せかけの自明性」を「自明視」する「物神崇拝」の風土にほかなりません」[4]と言ってテクストの「外に」現実があるかのような誤謬を批判する際に問題となっているのは、ルソー的な最初から不可能に終わる読み書きの試みからあるいは後退してしまって、われわれが無批判に「実在的」と呼ぶような劣悪なリアリズムではなかったか。『VS』がある意味読み手を寄せ付けないのは、テキスト(テクスト)を読み、そこから初めて生起する読みの中に内在するリアリティを読者に要求するからである。この二つのリアリティの位相をわれわれは微妙に調整することで「読む」ということを可能にしている。『VS』の最終部がひとつの劇的強度と静かなカタルシスを生むのは、テキストそれ自体が「すべて」という読みと「行間の飽和」による読みの狭間で「テキスト内の現実」を創出する新たな読みを読者に(それと知らない形で)提示するためである。
Chapter 4-2. 読むことの特異性、あるいはナイーヴでない仕方で
シャニマスのテキストに適用可能な読解のあり方として、先ほど三つの水準を示した。ひとつは「すべて」を読む読み方、二つ目は過剰な行間を読み込む「深読み」の読み方、最後にシャニマスのテキストを事実として真に受ける読み方の三つである。この三つの水準が判明することが、最後に言及するテクストを紐帯としたプレイヤー(プロデューサー)と283プロのアイドルたち、そしてストレイライトの三人の間において生じる友愛と/の真理にどう関わっていくのかについて、われわれはずばり「これだ」というような形で問いに対する「答え」を提示することはさしあたってないだろう。しかし、『VS』を介して何が問われているのかを明確にすること――本論においては、何を友愛とし、何を真理とするのか――は、この後のアンドレ・ブルトンから導き出されるテキスト/テクストとわれわれの間の幸福な関係に少なからず好ましい影響を与えるだろう。
「書かれたもの」が常に胚胎している宿命とは、それが何にも先立って「もの」であるということである。その媒体がいかに情熱的であろうとも、あるいは単なる事実の列挙のようであろうとも、それは自然言語による文字の集合体であり、そしてその事実から出発しない限りはテクストに内在する力学を適切に把握することはかなわない。蓮實が『ボヴァリー夫人』の中に「エンマ・ボヴァリー」の名前を認めず、それゆえに「『ボヴァリー夫人』の主人公はエンマ・ボヴァリーである」という「テクスト内現実」の成立を認めていない言及は、こういった「物質」としてのテクストの性質にどこまでも忠実であるからこそ可能なディスクールであるだろう。同じく、例えば『VS』において「和泉愛依が黛冬優子とパフォーマンスバトルで戦って負ける」というような形で「テキスト」の冗長性をつづめるのは、シャニマスが志向している「実在性」とは異なった、「読み」を新たに創り出す読み手側が汲み取るべきリアリティからして明らかに分が悪い。われわれがシャニマスの陳腐な「実在性」を、書かれたもののみを通じて現在置かれている水準とは違った水準で眼差し直すことができるとするならば、それはテキストの冗長性の中に真理が書き込まれているという態度でテキストに接することである。そして本論で問題となるのは、『VS』というひとつらなりのテキストにおいて「読まれるべき現実」がなぜ友愛の物語としてわれわれの胸を打つのか、という極めてシンプルな情動をテキストとは異なった形で――つまり、「批評」で――改めて示すことである。そのためには、「テキスト内現実」とその切実さを問う前に、「テキスト/テクストを読むことが、なぜ友愛と/の真理を把握することに繋がるのか」ということについて問いの構成を示し、本チャプターの結論へと至る助走をつけることが必要である。
シャニマスのテキストについて、われわれは無意識であれそうでなかれ、そこに書かれている事実を一定程度この現実に妥当するものとして読んでいる。それはあさひが『Amazing perform dancers』に出場する際に「どこも見ない」というやり方で空間を掌握するのが、三次元アイドルのライブにおける「レス」を意図的に欠いているのと対照になっているのもそうだし、冬優子が常に定量的な方法で勝ち負けにこだわることがともすれば「人気総選挙」のような悪趣味な市場主義に絡め取られているように見える(「見える」だけでそうでないこともまた明らかだが)ことについても「この現実と照らし合わせた際の妥当性」が人口に膾炙して「実在性」と呼びならわされているのも、単に事実だけ見れば自明であるように見える。283プロの事務所の様子を一日中垂れ流しにする配信や、周年ライブ前のアイドルたちによる「Twitterジャック」にしても、「実在性」という紋切り型がシャニマスのブランディングであると同時に、単にそれをリアリズムとしてよいのかと疑問に付される点でもある。要するに、われわれはシャニマスを完全なるフィクションとして受け取ることがシャニマスのテキストの性質上難しく、なおかつリアリティとしても単に「現実的」である以上のものにするためには言説や他の方法で別軸のやり方を模索しなければ態度としてナイーヴ以上のものではなくなるというアポリアに陥ることをユーザーである以上余儀なくされる。こういった袋小路を打開するためのいくつかある方法のうちわれわれが選び取るものとは、すなわち「シャニマスのテキストに固有のものをテキストに即して見出し、それを批評の文法において真理として語りなおす」というやり方である。
すでに書いた「読み」の三つの水準において、われわれがシャニマスで出会うことが多いのは「過剰な行間」に対する「深読み」の水準であり、それが「カメラ」であるならばなおさら、「編集点」がどこにあるのかという一種の「犯人捜し」(=ライターが何を語っていないのか)というやり方でしかテキストに肉薄できない、ということがこのゲームでは当たり前のことのようになっている。しかし、そういった「犯人捜し」はテキストを真に受けるやり方ではなく、単にテキストに対する態度として素朴である。真に受けることとは、そのテキストを任意の意味連関の中で読み手という特異的な圏のもとに受け取り、その特異性の中で固有の意義にテキストを再構成することである。そして、これは「テキストの真理」というものが持つ観念的な性格に照らし合わせても妥当であるだろう。素朴であることに甘んじることなく、そのテキストが読み手にとってどのような意味を持つのか、あるいは何故そのテキストが固有の誰かにとって切実足りえるのか、という問いに対して、われわれは読み手というひとつの特異性に賭けることがさしあたっての答えとなる。そしてさらに言えば、テキストに対する愛、あるいはテキストの中で提示される愛を、他の何にも替えが利かないものとして受け取るやり方とは、テキストに対して自らの特異性という実存を賭け金とすることでしかありえない。編まれることでわれわれの前に現れるテキスト、あるいは編まれたテキストに対してわれわれが編むテクストによって開示される真理と愛について、われわれは各々が持つ特異性をテキスト/テクストに賭けることによってそれらを暗黙裡に獲得する。冬優子が愛依の感謝に対して流した涙、あるいはあさひの「私が勝つのに」という空虚なモノローグは、現実「と比べて」もっともらしいか、という水準で語られることはもはや許されない。われわれは彼女らの涙や独白をわれわれの秘められたものにおいて受け取り、われわれが問題とする圏域でそれらが「解決」となり「肯定」となる瞬間を待ちわびるために『VS』を、そしてシャニマスを読むのである。であるならば、われわれが向かう道筋はもはやひとつである――「テキスト」から生み出された「テクスト」が、「テキスト」を愛する手立てがこの現実にないとしたら、われわれが向かうべき「現実」はどこなのか?
Chapter 4-3. なぜ愛が問題に/真理になるのか――詩的実践が現実を変革する可能性
シャニマスを一定の強度を持つテキストであると前提し、それらが「読むこと」において複数の――場合によってはミスリードにもなりうる――可能性を喚起することについてルソーなどを手立てに整理した。そして、複数存在する読みの可能性の中からわれわれは特異性をテキスト/テクストの潜勢力の本性とみなし、そこから浮上してくる可能性を友愛と真理という形で「秘められたもの」として位置付けたのだった。しかし、このようにテキストそのものの持つ力学をつまびらかにしたとて、真に『VS』において問題になっている事柄について語り尽くしたとは言えないだろう。愛依が冬優子に感謝を述べるとき、視点は愛依のものになり、冬優子を見る目は涙で霞む。このあまりにも切実で、場合によっては悲痛とさえ映る愛依は、不器用な彼女の言葉で何を伝えようとしていたのか。あるいは、愛依が冬優子に伝えようとしてテキストになった言葉は、どのようにわれわれに読まれうるか。そしてこれらの問いを考えるにあたって、われわれは最終的に極めてシンプルな答えを手に入れる。先の二つの小チャプターでルソーや蓮實から「シャニマスにおいて読まれるべき現実とは何か?」という問いを手に入れた今、われわれはその「読まれるべき現実がなぜ切実なものでしかあり得ないのか?」という問いを適切に形成する必要があるだろう。
われわれは問いを作るにあたって、まずはひとつらなりの詩からはじめよう。詩人であるアンドレ・ブルトンがものした『狂気の愛』という書物の最後を締めくくるのは、娘への手紙である。この書物には、著者であるブルトンがかつて愛した女たちの幻影がさまざまな自由連想に基づいて現れる。
ところがとつぜん、やはり先ほどのベンチだろうか、何だろうか、あるいはカフェの長椅子だろうか、舞台にはふたたび列ができる。今度は、腰をおろしている女たちが横並びに一列になり、明るい色の衣装をつけている、彼女らが今までに着た、もっとも感動的なものだ。バランスをとる必要から、彼女らの数は七人か九人。(中略)それは彼がかつて愛したことのある、彼を愛したことのある女たちで、こちらの女たちとは数年、あちらの女たちとは一日。なんと暗いことだろう![5]
ブルトンは自らを「彼(il)」と呼び、幻視のイメージの向こうに自らの分身を詩の上に作り上げることによって、ブルトンが実際に複数の女性と関係を持っていたかどうかということよりも詩によって出現する象徴性に「女(femme)」が遍在することを示している。この記述は詩であると同時に夢の記述のようでもあり、無意識下に現れる女性に関するイメージの奔流を書き留めているようにも見える。夢のような詩的実践の中で表現されるべきことは、ブルトンにとって愛をおいて他になかった。それは複数の女性を関係と持つのでも、気の狂ったファム・ファタールとアヴァンチュールするのでも、娘への想いの表現でも、同じことである。掉尾を締めくくる娘への手紙は、異様な切実さで読み手の胸を打つ。
若いころわたしは詩に身を捧げていた、詩でないあらゆるものを軽蔑して詩に奉仕しつづけてきたが、かなりあとになってわたしには詩の帰結となった愛、そのきらめきだけから、あなたは生まれている。あなたは、まるで魔法のように思いがけず、そこにいた。わたしが初めて、あなたにだけ宛てて書いているこうした言葉のなかに、もしいつの日かあなたが悲しみの跡を見分けたときには、こうした魔法があなたとひとつになっている、なりつづけていくだろうと思ってほしい。そして、こうした魔法が、わたしのなかで心を引き裂くすべての傷を乗り越える力を持っていると、思ってほしい。[6]
注目すべきなのは、ブルトンにおいてはかつて付き合った女性についての詩だろうと、娘への手紙だろうと、「詩の帰結」としての愛が唯一の「きらめき」として称揚されており、そして前節における「読者」の問題を導入するのであれば、ブルトンを(こと『狂気の愛』を)読むに当たっては愛の前にエクリチュールが常に存在し、そして愛は読まれ書かれることによってしか生起しえないということがミクロな視点から言及されている。とりわけ、娘への手紙は、ルソーと同じく「告白」の取りうるひとつの形として考えるのであれば、読者は娘しかいないわけであり/はずなのにわれわれがそれを読めるという時点で既に宛先と送り主の関係は破綻している。そしてこの破綻こそがブルトンの目指した詩的実践であるとともに、読まれ書かれるテクストがつねに偶然でしかありえないことの証拠なのである。
『VS』で、果たして愛依の言葉は冬優子に届いていたのだろうか、あるいは誰にも届かなかったのだろうか。エクリチュール上で叫ばれる愛を誰かに宛てた際に、それがつねにすでに偶然であると同時にかけがえのないものとして響かざるをえないように、愛依の慟哭とそれを受け止める冬優子との間でひっそりと結ばれる盟約の響きを、われわれは聞き逃していないはずだ。みるみるうちに涙声になっていく愛依の告解は、それがあらかじめすべては読まれ得ないと同時にテキストの中で必然的なリアリティを帯び、どうやって伝えたとしてもわれわれの目の前にはボイスとテキストウィンドウの表示としてしか(だが、それで充分な)表現されない愛の形がかろうじて結実するシーンとして表象される。愛依が「誰よりもカッコよく」ありたいと願いながら、大好きな「冬優子ちゃん」と戦って正しく負ける、その過程で愛依はストレイライトの中で誰よりも愛と真理を知る存在になる。われわれは、何を愛と呼び、何を真理と信じてここまでやってきたのかを今こそ思い出そう。愛とは、テキストが織りなす「現実」の中で契られる「彼女ら」の取り返しのつかない告白そのものであり、真理とは「現実」と告白において立ち現われる彼女らとわれわれ「プロデューサー」の間で交わされる「読むこと」をめぐっての約束である。告白と約束によって結びつけられたわれわれとストレイライトは、ここに来てようやく留保つきとはいえ、『VS』が目指した最終的な結論に到達する。現実はフィクションではないし、その逆もまた然りだが、われわれは愛依、あさひ、冬優子をこちらから愛することによって、彼女らが互いを愛する様を「現実」として受け取り、そして「現実」を愛することによってわれわれは初めてフィクションを適切に読むことができる。『VS』がわれわれに語ること、それは読むレッスンであるとともに虚構の中の愛を最後まで信じ切るオタクと美少女たちの契りなのである。
Ending Chapter. 群像劇ではない三人――未来のストレイライトへ
われわれがここまで辿ってきた過程は、まずは彼女ら一人一人をひとつの存在としてあらためて『VS』の中でとらえ直し、そしてそこからどうして愛と真理の問題が浮上してくるのかということをシャニマスがまずもってノベルゲームの意匠を汲んでいるという観点から「読み」の水準で思考していく、というものである。この試みがどの程度成功しているかは当然本論考の読者諸賢に委ねられるし、まったく違ったアプローチからストレイライト、ひいてはシャニマスを考えることはできるだろう。しかし、なぜわれわれがあくまでも「読むこと」にこだわるか、という点について、結論めいたものを提示しておこう。
ルソーを引くまでもなく、われわれは当たり前にすべてを読むことはできない。それは読む側の責任でも、書く側の責任でもなく、産み落とされたディスクールは読まれるそばからみるみる読者から抜け落ちていく。その不可逆的なプロセスは、いかにメモを取ろうと、何度読もうと、「百パーセント読めた」ということにはならない。肝心なのは、それを読み手が書き手とテクスト上で牽制しつつ共通の了解に落としどころを得ることである。シャニマスでは行間が飽和していると先に述べたが、ストレイライトに限らず様々なユニットの(W.I.N.GでもG.R.A.Dでもいい)物語が陳腐な謎と仕掛けに終始しているように見えるのならば、それはあなたが書かれてもいないことを追うのに疲弊しているからである。二十八人を擁する283プロのアイドルの面々と対話することが可能になったのならば、それはシャニマスがプレイヤーに要求する愛と真理をあなたがアイドルと共有することができたことの証左であるとも言える。
ストレイライトが『VS』においても顕著なように(とりわけ『Run 4???』以降)、彼女らは自身が群像劇であることをやめた。シナリオは個人的なことにフォーカスし、常に一対一の形で問題は提起される。本論考執筆時点で最新の『Wintermute, dawn』におけるあさひの描き方は、あさひが持つ孤独と冬優子と愛依のあさひに対するコンプレックスがない交ぜになって進行するシナリオだったが、あさひ対二人なのではなく、あさひ対冬優子、あさひ対愛依の形式で対話が行われていた。群像劇をやめた後、われわれはどうやったら言説によってストレイライトのドラマを賦活することができるかということが考えられなければならない。いずれにせよ、われわれがシャニマスに対してできることは多くない。ガシャを回してお目当てのpSSRのコミュを読むのもいいだろうし、グレフェスをやるのもいいだろう。一方でわれわれは「何かを言わなければならない」という衝迫に駆られてもいる。本論考が目指すべき到達地点は、シャニマスについて「何かを言いたい」と思っている人たちがこれを投げ捨てられるべき梯子として読み、そこから自分だけのシャニマスを作っていくことである。
それゆえ、われわれは来るべきところに来たと言えるだろう。美少女ゲームというポルノが生み出すひとさじの真実と愛があれば、オアシスの見つからないインターネットで喉が渇くこともない。清濁併せ呑んで、われわれはどこにでも行く。シャニマスというコンパスを頼りに、あなただけの海に出ればいい。ストレイライトの愛と真理は水平線の向こうにある。視界は良好。
あなたは癒される。
苦痛の涯てにあなたは生きる。
この一艘の車輌が地下を駆けぬけ、八つめの河を越えるときに。
だから、いま、世界を亡ぼすことばをいうわ。あなたに口づけしながら。シバ、あなたをもとめながら。
もとめながら。
愛してる。愛してる。愛してる
――古川日出男「アビシニアン」
[1] ジャン・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』竹原あき子訳、法政大学出版局、一九八四年、三七頁。
[2] 淵田仁『ルソーと方法』、法政大学出版局、二〇一九年、三一四頁。
[3] 『アイドルマスターシャイニーカラーズ シナリオブック』、一迅社、二〇二二年、七一七頁。
[4] 蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」拾遺』、羽鳥書店、二〇一四年、一八頁。
[5] アンドレ・ブルトン『狂気の愛』海老坂武訳、光文社、二〇〇八年、一三-一四頁。
[6] 前掲書、二四七-二四八頁。