(1/23)フェリックス・ガタリ入門講座レポート|第3回「あなたは今、どんな顔をしてますか?」@ソトのガクエン
こんにちは、ソトのガクエンの小林です。
いよいよ、フェリックス・ガタリ入門講座も残り2回を残すことになりました。今回は1月23日に実施されました、第3回「あなたは今、どんな顔をしてますか?」のレポートをお送りいたします。
今回の講座は、〈顔〉の何が問題になるのか?という問いから始まりました。顔は個体識別の機能が大きいけれど、それだけでなく、何らかの特性や属性、社会的位置付けの表示にも関わると山森さんは言います。
それゆえ、これまでに、顔つきによって当人の犯罪を犯す可能性を判断する生来性犯罪者説(ロンブローゾの骨相学)、あるいは、ソンディ・テストと呼ばれる心理(人格)検査技法などに用いられることもありました。
さて、ガタリの著作で「顔貌性」の議論が登場するのは『分子革命』(1977)からです。ガタリにとって「顔」とは、「社会がその社会を成り立たせるために装備しているもの(集合的装備)のひとつ」であると言います。学校、病院、警察などの社会インフラは、それぞれが固有の「顔貌性」を持ち、そこに所属する人間は、そこに適した「顔」を支給されるのだとガタリは考えます。
したがって「顔」は、個人を識別する機能を持つことに先立って、むしろ、「顔」こそが人を個人化すると考えます。ガタリの場合、個人性と主観性は同じではありません。主観性は個人性よりも広い概念で、両者は必ずしも一致せず、「顔」がその主観性を個人と一致させるとガタリは考えます。
すると、顔による個人化は、
個人の特異性が発揮されない状態に個々人を均質化すること
人がただ集まっているだけで集団になっていない状態へと非集団化する
という機能を持ちます。そして、個人化を求めるのは資本主義であり、資本主義としては、主体-集団(革命的集団)を創られるのは避けたいのだと山森さんは説明します。この考え方がよく分かるものとして、石田徹也「燃料補給のような食事」(1996)を紹介していました。
さらに、集団的装備としての「顔」によって個人化されることで、当人が自分が発した言葉の責任者として指定されることになる。顔と言葉、意味は連動している。権力構成体(資本主義や国家)はこうして、正常とそうでないものを区別、識別する記号として「顔」を利用し、それに相応しい更生施設(学校、病院、刑務所などの社会的装備)に個人を送ることになります。
ただし、ガタリは、顔貌性には社会的・集団的装備を逃れさせる機能もあると考えており、この辺りは、とても難しいけれども著作を読んでチャレンジしてほしいと山森さんは言われていました。
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次回はいよいよ最終回、フェリックス・ガタリ入門講座|第4回「あなたをそこから連れ出してくれるのは誰ですか? 」は1月30日(木)22時に実施されます。まだご参加いただけますので、ぜひお越しください。