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プロレスラー・レフェリー 沖識名

いつもの私の記事では、誰も知らないような戦前レスラーについて紹介していますが、今回の記事の主役は、戦前レスラーの中でも誰もが知る、沖識名さんです。
レフェリーとして有名ですが、レスラーとしてもかなり活躍されています❗️
そんな沖識名さんの人生を、色々な資料を基にまとめてみました。

⚠️この記事にはインターネット上には無い、埋もれた情報(新情報)が含まれています。引用・参考にする場合は私のXのDMかこの記事のコメント欄にて事前の連絡をお願い致します。

レスラーデビュー以前

沖識名は、1904年(明治37年)6月10日(または7月6日)に沖縄県与那原町で生まれる。
本名は識名盛夫。7人兄弟の長男だった。
一説には、鎮西八郎為朝(源為朝)の末裔とされる。
8歳(本人曰く10歳)の頃に、母と一緒に神戸から船に乗り、先にハワイのマウイ島に行っていた父を追ってマウイ島に渡る。
マウイ島のプウネネに移住し、3年後ハワイ島のヒロに移住。
小学校と中学校を合わせたようなハワイの本願寺学校(仏教関係の学校か?)に5年通う。

ちなみに、沖は、プロレスライターのパイオニアである、田鶴浜弘氏の父 次吉氏がハワイで経営していた、ハワイ中央学院の在学生(第一次世界対戦でアメリカ政府に没収)だった。
もしかすると、本人談の本願寺学校とはこの学校なのかもしれない。

父がサトウキビ畑で働いていたのもあってか、沖自身も、サトウキビ畑で働いていた日本人・フィリピン人のキャンプのトラック運転手をしていた。
ハワイ島に渡った1915年に、檀山流柔術の岡崎星史郎と出会う。この岡崎は、檀山流柔術(ハワイの柔術)の創始者であり、私が以前に紹介した、池田金城(錦城)や高橋精造たちと共に1920年代前半のハワイで活躍している。

また、この頃には、広島県人の浜井甚之助という人物から起倒流柔術(柔道説もあり)を毎晩教わっていたようで、18歳の頃には、柔道初段になった。ちなみに、日露戦争に活躍した矢田軍曹(経歴から見て屋部憲通なのか?)という人物に、五十四方という空手術も習っていたようで、この矢田軍曹は、沖と同じ沖縄本島の出らしい。
これらの情報は、沖本人が書いたプロレス&ボクシングの記事からの引用のため、一部違うかもしれないが、おおむね真実だと思われる。

柔道でハワイ選手権者になる活躍をした一方で、沖は、相撲にも取り組んでいた。
14歳になっていた1918年頃に相撲に挑戦。
1923年には、東京相撲でも活躍した江戸櫻の誘いで、アマチュアのハワイ相撲の土俵に上がっていた。四股名は沖ノ海。
ちなみに、沖の相撲の師匠は、この江戸櫻と袖ヶ浦という力士で、東京相撲からハワイの相撲の師範として海を渡ってきたらしい。先程紹介した池田と経歴が同じ(池田も東京相撲出身)なので、池田と江戸櫻、袖ヶ浦は関係があったのではと思われる。
沖曰く、二人とも体が小さかったけど、力は抜群で、テクニックは豊富だったようだ。

話が逸れますが、私的には、この江戸櫻も面白いです。沖と出会う前の1917年の3月から6月にかくて、ヤング・サンテル(アド・サンテルとは別人。ウィリアム・ラガーという人物のようです)と何度も戦っています。結果はサンテルの全勝。
また、1920年頃には江戸櫻の西洋角力(いわゆるプロレス)を報じる新聞記事もありました。ここには、行司(レフェリーか?)として池田金城の名前もあり、2人が繋がっていた可能性は高そうです。
ちなみに、このヤング・サンテルは、1916年の12月9日と1917年1月6日、2月5日にタロー三宅(三宅多留次)と対戦し、先2戦は負け、最後の試合には勝利しています(最後の試合に勝利し、ハワイ・ヘビー級王者になったとの情報もあった)。

話を戻して。
1925年、ハワイ相撲のマウイ場所で優勝。1000ドルを超える賞金を得る。
1927年にはホノルルに移住。
ちなみに、1921年頃(1924年説もあり)に日本の大相撲からスカウトがあったが、両親の反対があり、断っている。
四股名が沖ノ海だったこともあって、中国人からはチョンハイ(ノがチョン、海は上海のハイ)と呼ばれていた。
プロレスラー転向後も、日本人の移民の多い町などに行ったときなどは、相撲をしていたようで、負けることはほとんど無かった。
賞金泥棒というニックネームも付けられていた。

力士時代の沖さん

レスラーデビュー後

1931年、ハワイに来ていたタロー三宅に弟子入り。当時、三宅は日系人の弟子を求めていたようで、そのような広告を邦字新聞である、ハワイ報知や日布新報(日布時事か?)に出していた。
この話を聞いた沖は、YMCAでトレーニングをしていた三宅を訪ね、三宅の一言で、数多くいた日系の体自慢・力自慢の中から、沖一人が選ばれて弟子になった。

多くの媒体で、三宅が沖をスカウトをしたとしてあるが、これは間違い。正しくは、沖を弟子にしたというニュアンス。
本人曰く、20歳のようだが、おそらく27歳頃だと思われる。
当時の沖は、175センチで90キロ近くあり、毎晩YMCAでトレーニングをしていた。

三宅に稽古をつけてもらいながら、沖は、月100ドルで3年間、三宅のマネージメントの下で試合をする契約を交わす。1932年1月8日に、ニュージャージー州トレントンでベイブ・キャドック(ジョン・サプズィー)戦でデビュー。
リングネームの沖識名は、本名の識名と沖縄生まれなのが由来。
ちなみに、このリングネームを考えたのは沖自身ではなく、三宅とプロモーターだったようだ。
同月25日には、マディソン・スクエア・ガーデンで試合を行う。アーニー・デュセックと対戦し、引き分ける。
沖さんの自伝風記事には、おそらくこの試合がデビュー戦として書いてあった。
7月末には、沖は三宅との契約を切り上げ、ロサンゼルスで試合を行なった。

1933年2月22日、ロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムでジム・ロンドスと対戦し、敗れる。
3月30日にはサンフランシスコでレイ・スティール(スティール勝利)と、5月9日にはサンディエゴでエド・ストラングラー・ルイス(ルイス勝利)と、5月17日にはロサンゼルスでアド・サンテル(柔術マッチで対戦し、引き分け)と初対決。1934年の後半には、ニュージーランドとオーストラリアを訪れ、プロレスの試合と柔道の指導をしていた。

レスラーとしてハワイに凱旋したのは、1934年10月29日。メインイベントでジャック・マニュエルに勝利。
1936年12月31日に、デトロイトでエベレット・マーシャルの持つMWA認定世界ヘビー級王座に初挑戦。試合には敗れたものの、これは判明している限りにおいて、日本人初の世界ヘビー級王座挑戦であるとされる。同カードは翌年2月、3月にシカゴでも行われている(どちらの試合もマーシャル勝利)。
沖とエベレッド・マーシャルについては、後述します。
1937年11月16日に、長年使われていなかったハワイ・ヘビー級王座の新王者決定トーナメントの決勝で、ラスティ・ウェスコートを破り、復活後初の王者となる。
1938年5月10日にブロンコ・ナグルスキー、1939年8月29日・9月12日にホノルルで、ジム・ロンドスの持つ世界ヘビー級王座に挑戦している。王座戴冠は出来なかった。
1939年には、当時高校生のロバート・キンジ・シブヤ(後のキンジ渋谷)をスカウトするが、断られる。渋谷はその後、ハワイ大学に進学する。
1939年までハワイで試合をしていた。

1940年5月8日にカナダのオタワで、ワイルド・ビル・ロンソンと対戦。
7月29日、ルイジアナ州シュリーブポートでフレンチ・エンジェルと対戦し、敗れる。
フレンチ・エンジェルは怪奇派レスラーとして知られているが、ボストン版のAWA世界ヘビー級王者にもなっている隠れた実力者である。
1941年12月7日に真珠湾攻撃があったことを受け、沖はコロラド州デンバーにあった日系人の収容所に入れられ、ひよこの雄雌を判別する仕事をしていた。

現役時代の沖さん

戦後の活躍(レスラー・レフェリー)

終戦後、プロレスのリングに復帰したのは、1945年11月22日デンバーだった。アルバート・カンポスと対戦し、引き分ける。このカンポスは、無名のレスラーだった。
40歳を過ぎ、4年のブランクがあった沖は、若手の日系レスラーの台頭もあり、戦前のような活躍はできなかった。
1948年にはテキサスとハワイ、1949年にはオーストラリアで試合をしたが、テキサスとオーストラリアの反日感情を嫌ってホノルルに戻った。
1950年の秋には、一時プロレス引退。
ハワイでホテルとスポーツマン・バーというバーを経営した。しかし、経営がうまくいかなったため、1951年の5月20日にプロレスに復帰した。この日の試合で、アンドレ・アセリン(オビラ・アセリン)と対戦し、引き分ける。
この大会のセミファイナルには山口利夫、メインイベントには木村政彦が出場していた。

スポーツマン・バーの様子

1952年2月にプロレスラー転向のためハワイに来ていた力道山を迎え、力道山をトレーニングした。その間に力道山はホノルルのプロレス興行に出場していた。
1954年2月、力道山はシャープ兄弟を招聘して日本プロレスの旗揚げシリーズを開催。沖もレフェリーとして来日した。
この旗揚げシリーズは、1954年2月19日から3月9日まで行われ、最終戦では、沖もレスラーとしても出場している。遠藤幸吉とエキシビションマッチで戦い、引き分けた(沖が勝利したという情報もあり)。
8月6日から9月29日まで行われた、日プロの第2弾シリーズでも、沖はレスラーとして2度、試合をしている。8月25日の東京体育館、9月14日の名古屋市金山体育館大会で、カ道山と遠藤幸吉とタッグを組んで、ハンス・シュナーベル、ルー・ニューマン、ドクター・オルソンと対戦し、2試合とも力道山組が勝利。
1955年には、大相撲からプロレスに転身したばかりの東富士を、沖は指導している。
その東富士が、ホノルルの大会に参戦していた時に、沖もその大会にレスラーとして参戦している。
何度かホノルルで試合をしているが、6月12日の大会が沖の現役最後の試合となった。
第1試合で、シングルマッチでドック・ガラガー(ドク・ガラガー)と対戦し、反則勝ち。
そして、バトルロイヤルにドック・ガラガー、東富士、ジョージ・ボラス(ゼブラ・キッド)、ボビー・ブランズらと共に参加した(ニック・ロバーツが優勝した)。

その後の活躍は皆さんが知っている通りです。
レフェリーとしてだけなく、日本プロレス道場のトレーナーとしても活躍。猪木に格闘技技術を指導した1人でもあった。

その後も長らくレフェリーを続けたが、1973年3月9日に日本プロレスに辞表を提出し、レフェリーを引退。10月9日の全日本プロレス 蔵前国技館大会で引退セレモニーを行った。
長いレフェリー生活で一番思い出に残っている試合は、力道山対ルー・テーズの試合と、馬場対ジン・キニスキーのマラソンマッチだった。
その後はハワイに帰り、悠々自適の生活を送っていたようだ。ホノルルに建てた家に、甥夫婦が住んで、そこで生活をしていたという。
1983年12月15日に79歳で死去。奇しくもこの日は力道山が死去した日から、ちょうど20年だった。
12月21日(現地時間20日)に行われた沖の告別式には、休養のためホノルルにいた馬場も元子夫人とともに参列しており、『いい死に顔だった。思い残すことは何もなかったのだろう』とコメントしている。

レフェリー晩年の沖さん

エピソード

Wikipediaにもある、プロレスを八百長と言ってきたチンピラを、沖さんが怒ってボコボコにした話は有名だと思いますが、他にも興味深いエピソードがあるので、ここで紹介致します。

①拳銃密輸の件


先程紹介した、沖さんがチンピラをボコボコにしたのは留置所です。なぜ留置所にいるのかというと、捕まっていたからです。
逮捕容疑は、拳銃を密輸(国内に持ち込んだ)したことです。
この事件は大相撲の立浪部屋と暴力団が関わった大規模な拳銃密輸事件で、沖さんも1965年5月10日に逮捕されました。ある暴力団幹部から海外巡業の時にピストルを買ってきて欲しいと頼まれ、持ち込んだそのピストルを売ったようです。
一部情報によると、その幹部は日本プロレス協会の元役員だったようです。
力道山時代の暴力団とプロレスの関わりは有名ですが、当時もまだ暴力団とプロレスの繋がりは大きかったのだと思います。

留置所に入れられた沖さんは前述の事件を起こしますが、他にも興味深いエピソードが月刊ゴングの記事に書かれています。
それは当時沖さんを捜査していたT警部の話です。その警部曰く、
『あの時はびっくりしたというより、あきれたね。夜中の2時ごろだったか。沖識名が大声で、”おればかり、どうしてこんなところにいなくちゃあいけんのだ?警部の前に早よう連れていけ。日プロの連中で、おれより悪いことをしているやつがいる。そのやつらの話を全部話してやる!とね。なだめ、すかして寝かしつけたが、あの時、沖識名をしゃべり放題にさせていたら、日本プロレスから複数のナワ付きが出て、日本プロレスはガタガタになったのではないか?』
とのこと。
当初、当時の日本プロレス社長 豊登は、沖さんを解雇にする予定だったが、これは撤回された。しかし、沖さんは役員(取締役)を外され(元々豊登たち幹部は沖さんを嫌っていたようです)、国外退去の処分が取られることになっていた。戸籍の件に続きます。

②戸籍の件


拳銃密輸の件があって、国内退去の処分が取られることになっていた沖さん。
最初にも述べてますが、沖さんは与那原出身の純粋な日本人(一応日系一世にもなります)です。
ですが、裁判所に提出する沖さんの戸籍抄本が、どこを探しても無いのです。こうなると、沖さんは自称ハワイのマウイ島に住んだ過去がある、自称53歳(当時の沖さんの本当の年齢は60歳ですが、警察や豊登たちにも53歳と言っていたようです。しかし、沖さんの拳銃密輸での逮捕を報じた新聞記事には57歳と表記されていました。どっちにせよ、年齢を詐称 or 間違えていたのは確実だと思われます)の男になってしまいます。

それはまずいので、門茂男氏(日本プロレスリングコミッション事務局長、ジャパン・プロレスリング・ユニオン専務理事兼事務局長。沖さんはジャパン・プロレスリング・ユニオンの顧問を務めていた)は、沖さんと一緒に福岡市に入り、分厚い新原簿を細かく調べたが、本名の識名盛雄の名前は無かった。
しかし、沖さんの裁判を目前に控えた1965年の7月7日に、生まれ故郷の与那原町の人から、沖さんの戸籍原簿が見つかったとの連絡があった。
奥深い岩窟の中にあったようだ。
このことについて、沖さんは、門茂男氏にこう語っている。
『七夕さまの日、このおれの戸籍が見つかるなんて、まさに棚からボタ餅…』
この戸籍の発見から、沖さんの正しい年齢が分かり、豊登たちにも伝わっていった。
上記の拳銃密輸の件があり四面楚歌の状態だったが、当時のコミッショナーである、川島正次郎氏のはからいでリングに復帰した。

③田鶴浜弘氏と

前述の通り、田鶴浜弘さんと沖さんは関わりがあります。田鶴浜さんの著書である、『プロレス・ニッポン 世界をゆく』に沖さんの話があるので、引用させて頂きます。
沖さんは、1936年に起こった当時の一流レスラーである、マイク・ロマノの死亡事故(いわゆるリング禍)を見たようで、そのことを田鶴浜さんに話していたようです。
ただし、マイク・ロマノの死亡事故があったのは事実ですが、本文中の発生年(本文中には1930年春と表記されていました)は間違っていて、事故が起こった大会に沖さんが出場していたかは不明(レスリングデータには無かったです)です。
沖さん曰く、
『船乗りは板子一枚下は地獄だ─という諺が日本にあるだろ…あれとよく似てるよ、プロレスも受け身を失敗しなきゃあいいけど、一つ間違ったら第一巻の終わりというあぶないホールドを平気でやってるんだ』
本文にタロー三宅に連れられてとあるのですが、1936年は既に三宅は死去しているのであり得ませんが、当時からこういう感覚だったんだと驚きました。やっぱり受け身は重要ですね。
この出来事があって、沖さんの胸に厳粛な覚悟が太く一本つらぬいたそうです。

また、力道山がWWA世界ヘビー級王座になった時、沖さんが田鶴浜さんに語った言葉は記述されていました。
『だから、わしが果たせなかった夢を、リキさんに託すつもりで、一生懸命にリキさんにアドバイスして、とにかく報いられたと思ってるよ─これが今の心境だ』
前述の通り、沖さんは、ハワイ王者にはなってますが、世界王者にはなっていません。
自分が果たせなかった、世界王者という夢を弟子の力道山に懸けたのだと思います。

他にも、1938年の沖さんと田鶴浜さんの交流についても記述されていました。
当時、田鶴浜さんは、渡米しており、沖さんに会うためにホノルルに立ち寄っていました。
田鶴浜さんが日本人初のヘビー級世界王様獲得を激励すると、沖さんからは
『来年は、世界タイトルを今度こそ物にするつもりですよ』
と言われたようです。
当時の沖さんは全盛期で、先にも述べましたが、何度も世界王座に挑戦しています。
しかし、結局一度も世界タイトルを巻くことは出来ませんでした…
田鶴浜さんも、このことは全く不運であったと記述されています。
ちなみに、沖さんは世界王座を戴冠出来ていませんが、柔道(柔術)由来の得意の裸締め(スリーパー・ホールド)でジム・ロンドスやブロンコ・ナグルスキーたち、世界王者を何度も追い詰めていたようです。

プロレス・ニッポン 世界をゆく

④日本プロレスのコーチとして(北沢さんの話より)

Gスピリッツ vol.68の小泉さんの記事に、日本プロレス時代に沖さんから指導を受けたレスラーの一人である、北沢幹之(リングネームは魁勝司)さんのコメントが記載されてあったので、引用させて頂きます。
北沢さん曰く、
『沖さんや大坪(清隆)さんから教わったことは、ゴッチさんから教わったことと変わりはありませんでした』
カール・ゴッチは、レスリング技術に関節技のテクニックを持ち合わせていました。
沖さんも、前述の通り、柔術(柔道)のテクニックと、前述していませんが鈴木栄太郎にCACCを教わっています。教わったのは、三宅と一緒にいた1932年頃で、当時、鈴木はコロンビア大学ティーチャーズカレッジに在学していました。その鈴木が運営する柔道学校でトレーニングを受けたようです。
話を戻すと、沖さんとゴッチには共通の技術・テクニックがあることが分かります。しかも、沖さんはそれに加え、相撲と空手の技術があります。このことからも分かるように、沖さん凄さ、特異性を感じます。やはり凄い人です👍

Gスピリッツ vol.68

他にも、私のXをフォローしてくださっている木村光一さんの、格闘家 アントニオ猪木 ─ファイティングアーツを極めた男─に同じく北沢さんの沖さんについてのコメントがあるので引用させて頂きます。

──沖識名さんはどういう方だったんですか?
北沢『ちゃんと受身だとかも見てくれて、悪いところは直してもらって、関節技も教わりました。沖縄で空手の挑戦を受けた時も、沖識名さんの言う通りにやったら簡単に勝てました』

──いわゆるシュートのテクニックですか?
北沢『そうですね』

──ところで、北沢さんは沖識名さんが若い頃に柔術をやっていたのはご存知だったんでしょうか?
北沢『本人からそう聞いてました。だから空手との闘い方もわかってたんだと思います』

沖さん自身が空手(おそらく沖縄空手)の経験者だったからこそ分かるものがあったのかもしれないですね。気になるので、機会があれば、著者の木村さんにお聞きしてみます。
また、もし木村光一さんの格闘家 アントニオ猪木 ─ファイティングアーツを極めた男─をご購入されていない方がいましたら、是非購入してみて下さい!
格闘家としての猪木さんの一面が分かると思います。ちなみに、本記事の主人公である、沖さんについての説明もあります。

格闘家 アントニオ猪木 ─ファイティングアーツを極めた男─

レスラーとの関わり(プロレス&ボクシングの記事より)

沖さんは戦前のアメリカでかなり活躍したのもあって多くの有名レスラーと関わりがありました。興味深いエピソードも多くあるので、ここで紹介させて頂きます。また、タロー三宅とのエピソードは前述した以外にも多くあるのですが、今回は書きません。また紹介します。

ルー・テーズ編

ある時、背は高いが筋肉質でやせている17歳のオープナーという少年が沖さんのところに、一人で挨拶にきたようです。プロモーターとして知られる、”カーネーション”ルー・ダロー(日本にもスカウトのため来日している)がこのオープナーを絶賛したようで、ルー・ダローはオープナーを将来の世界チャンピオンだと考えていました。
そのオープナーという少年が後のルー・テーズでした。しかし、ルー・テーズの本名はアロイジアス・マーティン・セッズなので、オープナーという名前がテーズに関係するかは分かりません🤔

沖さん曰く、テーズは当時から、容赦のない、てきぱきとメリハリのあるレスリングをやっていたようです。
当時の沖さんはセミファイナルかメインイベントに出場していたので、当時前座のテーズとは大きく差がありました。なので、テーズは沖さんのキャデラックに乗せてもらって試合会場に行っていたようです。
そして、沖さんの試合が終われば、テーズは沖さんの汗を拭いてくれて、荷物も持ってくれたようです。

有名な話に沖さんがテーズにバックドロップを教えたという話がありますが、それについても沖さんが言及しています。
沖さん曰く、タロー三宅から教わった柔道テクニックの後投げ(おそらく裏投)の要領とタイミングをテーズに教え、テーズがそれを独自の工夫を凝らし、実戦でその真髄を会得したとのこと。
また、テーズの稽古台を、沖さんはずいぶん務めたようです。
本人の証言があるので、少なくとも、テーズのバックドロップに、沖さんのテクニックが影響を与えていることは確実だと思われます。

ちなみに、テーズはロサンゼルスでの試合兼修業を終えると、ホームグラウンドのセントルイスに帰ったようです。
テーズがエベレット・マーシャルに勝利してNWA世界ヘビー級王者(第23代、1937年12月29日 セントルイスで奪取)になる前の年に、沖さんはテーズと再会し、テーズの体が鋼鉄のようになっていたのを見て、沖さんは驚いたようです。

他にも面白い話がありました。
沖さんが、テーズと初めて会った時の印象と、猪木さんと初めて会った時の印象が同じだったようです!
二人とも目が凄くきれいで、筋肉が柔らかすぎず、硬すぎず、背も目方も年も同じだったようです。
猪木さんは、テーズを師匠の一人と名前を挙げています。そんな関係の二人が、沖さんから見て同じに見えたのは興味深いです🤔
二人を若手のころから知っている沖さんならではの、かなり貴重な意見ですね❗️


Xに既に投稿していますが、下の写真は沖さんとテーズが寿司を食べている様子です。

ミスター・モト編

日系レスラーのミスター・モトのプロレス入りには、ハワイ相撲の先輩である沖さんが関わっている話は有名だと思うので、今回の記事では割愛します。沖さんとモトのエピソードで、他にも面白い話があったので紹介致します。

沖さんが、1ヶ月にわたるニュージーランドとオーストラリア遠征から帰国し、ハワイに4年ぶりに帰った時にある人物と出会いました(状況から見ておそらく1934年頃だと思われる)。
その人は、岩本という人物で、熊本訛りの50歳ぐらいの人でした。
この岩本さんは、熊本出身で、当時ヒロとコナの間の定期便のトラックの運転手をしていました。
勘のいい方は気づいたかもしれませんが、この岩本さんこそが、ミスター・モトことチャールズ・マサル・イワモトの父親なのです。

岩本さんは、沖さんに話しかけてきて、息子(モト)がハワイ島相撲大会で、沖さんの島(マウイ島?)の敷島という人に負けたので、沖さんに相撲を教えて欲しいと言ってきました。
何故沖さんなのかというと、沖さんがハワイ相撲の横綱だった時代に、岩本さんも7か8番目にランクされていて、元々知り合いだったようです。

翌日朝、沖さんは息子(モト)のところに向かいました。当時(19歳ぐらい?)から、モトの上背は、沖さんより一〜二寸(3〜6cm)高かったようですが、体重が無かったようで、十二、三貫(45〜49kg)ぐらいだったそうです。
また、色が抜けるように白く、とても男前だったようです。モトが男前なのは有名な話ですが、沖さんもそう思っていたのですね!
出会って、沖さんはモトにこう質問しました。
『ユウは、おやじが相撲をやれというのでやっとるのか?それとも、自分が相撲が好きでやっとるのか?どっちだ?』
すると、モトは即座に
『ぼくは、ハワイの相撲のチャンピオンに早くなって、二、三年、横綱を張ったら、プロレスラーに転向して、あんたみたいに有名な強いレスラーになるんだ!』
と答えたようで、沖さんは大変嬉しかったそうです。

その後、沖さんは毎日モトを指導し、次の年にはモトは、マウイ島で開かれたハワイ相撲大会で宿敵の敷島に勝利し、見事横綱(沖さんより2代後)になったそうです。
当時、沖さんはシカゴにいたようで、父親からの手紙で知り、知った時は自分のことのように嬉しかったそうです。
沖さんが三回目にハワイに帰ったとき(おそらく1939年頃)には、モトは、プロレスラーになる決意を固め、YMCAかシビック・オーディトリアムのジムでウェイト・トレーニングをやっていていたようです。

ここまでが、沖さんとモトのエピソードです。記事の内容に一部時間軸がおかしい部分もあるのですが、本人が書いた記事に書いてあったエピソードなので、事実だと思われます。モトの父親に関する情報もあったので、とても興味深かったです。

ミスター・モト

エベレット・マーシャル編

NWA世界ヘビー級王者にもなった、一流レスラーのエベレット・マーシャルとも沖さんは関わりがあったようです。

記事の時系列がおかしいので細かく記述しませんが、三宅と別れ、三宅からの紹介状を持った沖さんはロサンゼルスにいました。
三宅から貰った紹介状の宛先は、ビル・センダーという人物で、沖さんは会ってから初めて知ったようですが、このセンダーは、エド・ストラングラー・ルイスのマネージャーをしていました。
三宅からの紹介状を読んだセンダーは、すぐに電話をかけました。
その電話をかけた相手が、時のカリフォルニアのチャンピオン、エベレット・マーシャルだったのです。

沖さんがエベレット・マーシャルと初めて出会ったのは、YMCAのトレーニング・ルームだったようで、『おい!そこの若いの、リングに上がれ!』
とエベレット・マーシャルに言われたようです。ちなみに、歳は沖さんの方が年上です💦
そうして沖さんは、リング上がりました。
背は一、二寸(3〜6cn)高い程度でしたが、組み合って、マーシャルの筋肉がベニヤ板みたいだったことに、沖さんは驚いたようです。
沖さんは、ニューヨーク時代に練習を重ね、実戦でも効果をあげた腕がらみ、足攻め、関節技に裸絞めを使って、エベレット・マーシャルに立ち向かいました。分かると思いますが、おそらくこれは、マーシャルとのスパーリングです。
マーシャルからは、『よおやるな!こんなに効く技、どこで習った。先生は誰だ?』と言われ、沖さんは感激したようです。
また、『関節技は大きい者に仕掛ければよく効くが、大きいヤツにはスリーパー・ホールド(裸絞め)は効かんぞ。大きいヤツには、何を使い、小さいヤツには何の技を使うということを整理して、トレーニングしなければ売れるレスラーにはならんぞ!』とも言われ、マーシャルが沖さんのことを、”売れるレスラー”と言ったことは、生涯忘れなかったそうです。

前述していますが、マーシャルと沖さんはタイトルマッチでも試合をしています。

エベレット・マーシャル

最後に

どうでしたか?
Gスピリッツを主軸に、私の持つ情報も加えながら、沖識名さんの人生についてまとめてみました。そのせいか、文字数が12000字を超えてしまいました💦
他にも、沖さんとタロー三宅とのエピソードや、スタニスラウス・ズビスコとのエピソードがあるのですが、長くなりすぎるので、また機会があれば紹介致します。
この記事が、皆さんのためになれば幸いです。
また、ここまで読んで下さりありがとうございます。

もし、沖さんについて他にも情報をお持ちの方がいましたら、この記事のコメント欄かXのDMにて連絡をお願い致します。
また、私の記事を引用・参考にする場合にも同様の対応をお願い致します。
改めてご覧頂きありがとうございました。
では、また次の記事で。



参考文献(書籍・論文・サイト)

書籍・論文
・プロレス&ボクシング
・月刊ゴング
・Gスピリッツ vol.67、68
・プロレス オール強豪名鑑 世界編、日本編
・プロレス・ニッポン 世界をゆく
・日系レスラー 選手名鑑
・History of Hawaiian Wrestling
・格闘家 アントニオ猪木 ─ファイティングアーツを極めた男─
・WRESTLING of JAPAN  No.1
・ジョセフ・スヴィンス氏の論文

サイト
・ブッチャー、おまえもか〜沖識名伝〜|Report

・屋部憲通から力道山まで 〜ハワイと空手の数奇な運命〜|Studies

・レスリングデータ(wrestlingdata)


・邦字新聞デジタルコレクション
https://hojishinbun.hoover.org/?l=ja

・日本で3回だけレスラーになった沖識名

・ハワイ州ヘビー級選手権

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