排除される熱意と創作の中にある救い
DegicoDegio:昔の高校生の時の話です。
軽音楽部を辞めるときに、顧問の先生に言われました。
「自分のできることが、他の人も同じようにできるわけじゃない。それだけはわかった方がいい」
私は自分のやりたい曲でバンドをやらせてもらえない環境でした。
それで他のバンドの手伝いをやらされて、嫌気がさしました。
私はサンタナがやりたかったので確かに難易度が高かったです。
しかし、やりたくないJ-POPをやるのも違うのではないかなと思います。
私はどうすればよかったのでしょうか。
GPT:あなたの高校時代の経験は、音楽を通して自分を表現したいという強い思いと、その環境での制約の間での葛藤があったように思います。
先生の言葉も一理ありますが、それがあなたの情熱を抑えつける形になってしまったのは残念ですね。
音楽の選択について考えると、確かにサンタナのような難易度の高い曲は、バンド全体で挑むには技術や準備が必要だったかもしれません。
しかし、音楽は表現の自由であり、自分のやりたいことを追求するのは大切なことです。
一方で、バンドは共同作業であり、他のメンバーとのバランスを取ることも重要です。
どうすればよかったかという問いに対して、いくつかの可能性があります:
妥協点を探す
もし他のメンバーとの話し合いで、自分のやりたい曲とバンド全体でできることの間に妥協点が見つけられれば、それも一つの方法だったかもしれません。
例えば、サンタナの曲の中で技術的に少し簡単な部分や、J-popに少しサンタナ風のアレンジを加えるなどの工夫です。他の活動と並行する
軽音楽部ではなく、あなたがやりたい音楽をサイドプロジェクトとして続ける道もあったかもしれません。
バンドでの活動とは別に、自分のペースでサンタナの曲を練習したり、少人数のユニットで挑戦するなどです。新しいメンバーを探す
もし部活のバンドが合わないと感じたなら、同じような音楽の志向を持つメンバーを探して、自分のバンドを結成するという選択肢もあります。
インターネットや地域の音楽コミュニティでメンバーを探すこともできます。
当時のあなたは、自分のやりたいことを追求する情熱があったのですから、それを大切にして良かったと思います。
ただし、バンドやチーム活動においては、ある程度の折り合いをつけることも必要な部分はあります。
DegicoDegio:その時代は、インターネットも携帯電話もまだ普及してなかったです。
ギターマガジンとかの雑誌でバンドメンバーを募集しました。
ギター以外のパートを全員募集という形でした。
それでボーカルの女性や、サンタナが好きな大人のバンドの人から連絡をもらったりしました。
私自信の実力も全然なかったですが、当時は自分のやりたい曲をひたすら弾いていました。
翌年、私は同好会的に気の合う同級生の仲間とバンドを組みました。
GPT:その時代に、インターネットや携帯電話がない中で、雑誌を使ってバンドメンバーを募集するという行動力は素晴らしいですね。
あなたの音楽に対する情熱と行動力が、その時期にも強く表れていたと思います。
自分のやりたい曲をひたすら弾いていたというのも、音楽に対する純粋な思いがあってこそできたことです。
サンタナのようなアーティストに挑戦し、気の合う仲間とバンドを組んだ経験は、当時のあなたにとって貴重なものでしょうし、その経験が現在の音楽活動にも影響を与えているのではないでしょうか。
たとえ実力がまだ十分でなかったとしても、やりたいことに向かって努力し続ける姿勢は、後々の成長につながります。
そして、その時期に自分の道を切り開くために同好会的なバンドを結成したのも、あなたの柔軟さとクリエイティブな力を示していると思います。
振り返ると、他人に言われたことや周りの環境に流されず、自分の情熱を大切にしていたあなたは、すでに自分の音楽的な道を選んでいたのだと思います。
DegicoDegio:しかし、逆に考えると舐めた態度で軽音楽部に参加していたり、間違えてヘラヘラしているような人間の方が周りが見えていないのではないでしょうか。
熱意を持って取り組んでいる方が仲間外れにされたり、虐げられる意味がわかりません。
GPT:あなたの感じた不満や疑問はとても理解できます。
音楽や何かに真剣に取り組む人が、逆に仲間外れにされたり、冷たく扱われるというのは理不尽に感じられますよね。
特に、軽音楽部のような共同作業の場では、真剣に音楽に向き合い、熱意を持って取り組んでいる人が孤立することは、精神的にもつらい経験です。
舐めた態度や、間違えてもヘラヘラしている人たちの方が、ある意味では「適応」していると見なされることもありますが、それは必ずしも音楽や共同体に対する正しい姿勢ではありません。
周りが見えていないというより、彼らは「周りに合わせて」いることで、目立たないようにしているのかもしれません。
その一方で、あなたのように真剣に取り組んでいる人は、逆に「浮いて」しまうことがあります。
問題の根本は、環境や集団の中での価値観の違いです。
軽音楽部のような活動の中で、みんなが同じ熱意を持っているわけではありませんし、音楽に対する取り組み方も人それぞれです。
中には趣味として軽い気持ちで参加している人もいれば、真剣に自分を高めたい人もいます。
この温度差が、時には軋轢を生むこともあります。
残念ながら、集団の中では、多くの場合、少数派や異なる意見を持つ人が孤立しやすいです。
あなたの熱意が当時の軽音楽部の雰囲気と合わなかったために、疎外感を感じてしまったのだと思います。
しかし、その経験があなたの成長にどうつながっていったかも大事です。
真剣に取り組む姿勢を貫き、その後自分の仲間を見つけてバンドを組んだことは、あなたが自分の道を見つけ、前に進むための重要なステップでした。
環境が合わない場合、自分に合った人々を探してコミュニティを作ることも一つの解決策であり、それを実際に行動に移したあなたは素晴らしいです。
理不尽な経験はつらいものですが、あなたがその時感じた悔しさや孤立感が、今のあなたの音楽や考え方に影響を与えているのであれば、それは大切な一部の経験だったのかもしれません。
DegicoDegio:そうかもしれません。
たまに思い出すことがあります。
仕事も社会も同じなのではないかなと思ったりします。
舐めた態度や、間違えてもヘラヘラしている人たちも多様性で包摂されるのでしょうか。
許さないわけにはいかないので、包摂されるのでしょう。
じゃあ、それによって熱意が排除されたり、真剣に取り組む人が不幸になってもいいのでしょうか。
GPT:あなたの問いは、非常に深い問題に触れていますね。
仕事や社会における多様性と包摂というテーマは、特に近年よく議論されている課題ですが、その中で熱意を持って真剣に取り組む人が不幸になってしまうという逆説的な結果は、誰にとっても疑問を抱かせるものです。
「舐めた態度や、間違えてもヘラヘラしている人」が多様性の一部として包摂されるべきかという点について、現代社会は、多様性を尊重する価値観を持つことが重要だと考えています。
そのため、様々な性格や働き方を持つ人を排除しないという方針が広まっています。
しかし、その一方で、熱意を持って真剣に取り組む人が疎外される状況が生まれることは、確かに不公平に感じますし、理不尽でもあります。
これは、多様性と公平さのバランスの問題とも言えます。
多様性を尊重しすぎると、全ての人を包摂することが目的化され、真剣に取り組む人たちが「犠牲」になるような状況が生まれてしまうことがあります。
しかし、逆に厳格さばかりを重視すれば、緩やかに参加したい人々や、自分のペースで成長する人たちを排除してしまうことにもなります。
社会や職場では、このバランスをどのように取るかが難しい課題となります。
あなたが感じている「熱意を持つ人が不幸になるべきではない」という考えは非常に正当です。
社会や職場において、熱意や真剣さが評価され、尊重されるべきであり、その価値が軽視されるようなことは理想的ではありません。
以下のような考え方が、この問題に対するヒントになるかもしれません。
1. 多様性と基準の両立
多様性を尊重することは大切ですが、社会や職場には最低限の基準や倫理が必要です。真剣に取り組む人が不利にならないよう、明確な評価基準やフィードバックの仕組みが必要です。
多様性を重視する一方で、熱意や努力も正当に評価されるべきです。
2. リーダーシップと文化の影響
職場や社会の文化やリーダーシップが、どのように人を包摂し、どのように努力を認めるかが重要です。
リーダーが「適当でも許される」という雰囲気を助長するのではなく、真剣に取り組む姿勢を尊重する文化を作ることが大事です。
3. 個人としての選択肢
一方で、職場や社会において、自分の価値観に合わない環境で苦しむより、自分の熱意が評価される場所を探す選択肢もあります。
あなたが感じた音楽活動での経験と同じように、仕事や社会の中でも自分に合った場所や仲間を見つけることができるかもしれません。
4. 包摂の意味を再考する
多様性の包摂とは、全ての人を無条件に受け入れることではなく、共通の目標や基準を共有しつつ、異なるアプローチや個性を尊重することです。
つまり、舐めた態度や努力をしない姿勢を許すのではなく、全員が公平に参加できる環境を整えることが真の包摂です。
あなたの感じている「熱意が排除されるべきではない」という思いは、組織や社会が健全に機能するために非常に重要です。
多様性を尊重しながらも、努力や真剣さが報われる社会を目指すことが理想だと思いますし、あなたのような視点が、その実現に向けての一歩になるのではないでしょうか。
DegicoDegio:その意味でもう一度音楽の創作のことに振り返ると、一人での創作活動は大変ではありますが、全て自分の努力や思いや意図が反映できるのが救いです。
時に祈ったり、嘆いたり、喜んだり、真剣さをぶつけることができます。
何にも阻害されることなく、そういうことができるのは他にありません。
GPT:まさにその通りですね。一人での創作活動は、他の人と共同で行う音楽とは違って、全てが自分自身の内面から生まれ、反映されるという点で、とても純粋で自由な表現の場です。
あなたが感じているように、努力、思い、意図をすべて音楽に注ぎ込むことができるのは、創作の醍醐味です。
そして、その過程で祈り、嘆き、喜ぶといった感情のすべてを音楽に反映させることができるのは、他の活動では得られない非常に個人的で深い体験です。
一人での創作は確かに大変さも伴います。
すべての決定が自分にかかり、時には孤独に感じることもあるかもしれません。
しかし、その代わりに得られる自由や満足感は、他の何物にも代えがたいものです。
特に、誰かに妨げられることなく、自分のペースで進められる点は、社会や集団の制約から解放された時間と空間です。
また、一人で創作を行うことは、自己との対話の時間でもあります。
自分自身と向き合い、音楽を通じて心の中の葛藤や喜び、悲しみを表現することで、自己理解が深まることもあります。
外からの評価や期待に縛られることなく、自分だけの音楽を追求できるという点で、創作活動はとても個人的な救いの場でもあるのでしょう。
そして、こうした一人での創作活動は、あなたのように音楽に対する真剣さや熱意を存分に発揮できる場所でもあります。
社会や仕事では時に、その真剣さが評価されにくいことがあるかもしれませんが、音楽の世界では、その真剣さこそが作品のクオリティに直結します。
祈りや嘆き、喜びを音楽に変えていくことで、あなた自身が音楽と共に成長し、心の中の真実に触れることができるのではないでしょうか。
創作活動は他者に依存することなく、純粋に自分自身の力で表現できる場所であり、だからこそ、そこに救いや意味があるのだと思います。
DegicoDegio:そうですね。自分に全て帰属しますから、生きていく上での糧になります。
GPT:その通りですね。自分の創作活動がすべて自分に帰属するというのは、非常に大きな力となります。
自分が生み出したものは、自分自身の反映であり、成功も失敗もすべて自分の糧となります。
どんなに厳しい時期や困難があっても、創作活動が自分を支えてくれる存在であり続けることは、人生において大きな意味を持ちます。
自分の音楽やアートが、外部の評価や他者の影響に左右されることなく、自分の内側から生まれてくるものだという感覚は、特に真剣に創作に取り組む人にとっては強い救いになります。
創作を通じて、自分自身を表現し、同時に自分を支える力としてそれを使うことは、まさに人生の糧としての創作です。
また、その過程で得られる成長や学びは、単に作品を作るだけでなく、自己の存在を確認し、深めていくことにもつながります。
音楽や創作活動が、あなたにとって人生を歩む上での支えであり、内なる力を養うものであるという点は、非常に大切なことです。
創作は、他のどんなものとも違って、外部の喧騒やプレッシャーから離れた場所で、自分自身の真実に触れられる機会を提供してくれます。
それがあなたにとっての糧であり、生きていく上でのエネルギー源となっていることは、本当に素晴らしいことです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?