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少女解体|『結晶質』安田茜


すべての趣味と同じように、感傷は本質的にはただ過去のものの上にのみ働くのである。それは出来つつあるものに対してでなく出来上がったものに対して働くのである。すべて過ぎ去ったものは感傷的に美しい。感傷的な人間は回顧することを好む。ひとは未来について鑑賞することができぬ。少くとも感傷の対象であるような未来は真の未来ではない。

三木清『人生論ノート』所収「感傷について」p108

 著者は1994年、京都府生まれ。「立命短歌」「京大短歌」「塔」出身。現在は「西瓜」所属。2016年、第6回塔新人賞。2022年、連作「遠くのことや白さについて」で第4回笹井宏之賞(神野紗希賞)。それに伴い、2023年、受賞連作に既存作を連ねた本作を刊行した。その後、本歌集の刊行記念トークイベントへの登壇や、『現代短歌パスポート2 恐竜の不在号(書肆侃侃房)』への寄稿、京都文学フリーマケットでのペーパー配布、短歌アンソロジー「ひかってみえる」への掲載など。

 余談だが、氏のTwitter(現X)を見てみると、beatmaniaシリーズを好んでいることが分かる。私は音楽ゲームに疎いが、達見恵さんの「キセキはじまり☆」という曲だけは縁があって知っている(同シリーズの妹分であるpop'n musicシリーズの楽曲)。小学生の頃に音楽室にあった木琴の手触りや音に憧れていた(?)こともあり、それから時を経て聴いた、とにかくマレットを乱打するこの曲については強い印象を持って覚えている。これもまた感傷的な思い出だろう。

笹井賞における異端者

 安田茜は、同賞の受賞者の中では異色と言っていい。たとえば、受賞作「遠くのことや白さについて」にはこんな歌がある。

彼岸花わたしのここにも咲いていて此処が見えないとは言わせない
夕凪にほほえまないで 打ちつけてしまいたくなるからだを海へ
絵はがきを反故にしてまで伝えたいものがわたしにあったのだろう
花枯れるついでに声も枯れてゆくしかたのなさに気がとおくなる
血は垂れる 金のりんごを身体からひと月ごとにそこなうように
きずついたゆめの墓場へゆくために銀紙で折るぎんのひこうき

「遠くのことや白さについて」 

 一首目は、「ここ」と「此方」が同じところを指しているにも関わらず、時点や文脈の違いからだろうか、他者の視点からはまったく別のものを意味しているように受け取られてしまうことへの、妙な切実さがある。二首目の「夕凪にほほえ」んでいる他者との隔絶にも、その切実さに近いものを感じるし、それに対峙する方法を知らない者のあどけない抵抗も見える。
 三首目。美術館などの旅先でポストカードかなにかを買った記憶はあるが、それが手元にないということは、わざわざ気に入った「絵はがき」を他人にくれてやってまで、伝えたかったことがあったのだろう(あるいは、そうであることを必要とするような他者を持ち得たのだろう)という追想の歌か。もはや記憶にはないけれども強烈な不在感を与える何かを思わせる。
 四首目と五首目は、女性としての身体感覚のことを指しているのだろう。六首目の「ぎんのひこうき」は、過去をたどっていくために「銀の飛行機」ではあってはならないという意図があるのだろう。ひらがなで構成された世界でしか感じることのできないものへの憧憬とも言えるだろう。
 受賞作以外には、下記のようなものもある。

機織り機ほんとに見たのさわったの泣きたいときに思い出してね

「君の土地から」

ありがとう存在しないこどもたちわたしの胸に留まってくれて

「蛍石」

むかしより低めの声がでるようになったけど役には立たないね

「鉱石」

 共通するのは過去、とりわけ子供時代に対する甘やかな思いだろう。作中主体には、自身の幼年時代を引きずり回してここまで来てしまったという「こじらせ」が見られる。そしてそれは、多かれ少なかれ、誰にでも共通する感覚だろう。追想は芸術におけるモチーフの王道だ。
 ところで、本書に含まれる「遠くのことや白さについて」は、先述のとおり第4回笹井宏之賞(神野紗希賞)の受賞作である。受賞作は、同賞を運営する出版社・書肆侃侃房の短歌ムック「ねむらない樹」にて選考会の模様とともに全首が掲載される。他の受賞作の歌を並べてみる。

公園につぶしていない蟻ばかり 妹たちといればわたしが
ポニーテールをしようと寄せて髪の束つかんだ子どもの手首くらいの
(椛沢知世「ノウゼンカズラ」) ※大賞

三ノ輪駅に潜ってくとき目の位置に知らない人の内臓がある
前を行くサラリーマンのからだからぽつりとひとつ輪ゴムが落ちる
(涌田悠「こわくなかった」) ※大森静佳賞

おひねりでも貰はねばやつてられんな。夏といふ柑橘かをる檻
あきらめといふラメがあるなら足先に塗りたくつて闊歩しやうぜ浜辺
(佐原キオ「みづにすむ蜂」) ※染野太朗賞

人命を救わないドーベルマンが隣の家で愛されている
バ・バ・バナナ・み・み・みかん・仏壇のフルーツにリズムを・先祖だいすき
(上牧晏奈「ふぁんふぁん」) ※永井祐賞

多様性ということばが実在の絵画のように語られている
鉄塔がどこへ行っても見えている 進歩とはまた消費でもある
(手取川由紀「直線」) ※野口あや子賞

「ねむらない樹 vol.8」

 恣意的な選定かもしれないが、安田の一連は、明らかに他の作品とは作風が異なっている。暗示的な描写によって作品世界を構築したり、身の回りにおける事物へのピントをズラしたり、くだけた言葉を使ったりあえて文法を逸脱したり、諧謔性を軸に据えたり、視線を(個人でも身の回りでもなく)括弧書きの社会に向けたり、硬軟自在な作風が入り乱れる笹井賞において、安田は際立って「古風な意味での文学っぽい」ように見える。
 この点は、募集作品全体においても同様と考えられる。安田を一位に推した神野と、選考委員の一人・永井とのやり取りを抜粋する。(省略、強調は引用者による)

神野 候補作全体に現代日本を舞台とした作品が多い中で、一貫して普遍的な言葉を使って心象風景に留まろうとしている。そこに強い意志を感じましたし、そうして編まれていく心の風景に空気の清らかさ、詩の背骨が通っているところに胸打たれて、一位に推しました。
(中略)
永井 いまおっしゃったことは私も受け取れたと思います。「雪山を裂いて(※)」から作品が始まっていき、大文字のロマンというか、歌の世界観がはっきり示されて、それが一貫している。

※引用者註:一連の最初の歌である「雪山を裂いて列車がゆくようにわたしがわたしの王であること」のこと

前掲書p56

 特定の時代・場所に限られない、普遍的な言葉によって構成される心象風景から編まれる歌に、世界観の一貫性があるという点が、安田の作品に寄せられた賛辞である。それには大いに同意する。下記のような歌を引用した方がいいかもしれない。

さいはてへもどる小舟は朽ちかけて声ははじめて声になれない
戴冠の日も風の日もおもうのは遠くのことや白さについて
とこしえに手のとどかないものがありとこしえゆえに森よりはるか

「遠くのことや白さについて」

 笹井賞は、選考委員に必ず一人は歌人以外(歴代では、詩人、小説家、評論家、ラッパーなど)が入ることになっている。それが本賞を彩り豊かなものにしていると言え、安田も俳人・神野による推薦だった。ある種、安田の作品が候補作中の異端となったのは必然のことのように思える。
 しかし、なぜ先ほど述べた性質ゆえに安田の作品は異端となったのか。永井が安田を評する際に使った「大文字のロマン」という言葉をもとに考えていきたい。

「大文字のロマン」なる言葉

 他の候補作の特徴を裏返しにして安田の作品の特徴を表現すれば、「表現は直接的で語法も適切な、真率に内面や世界を見つめた作品」ということになるのだろう。これは極言すれば「素直」な歌ということになるように思う。「大文字のロマン」とは、文学への理想主義的な信仰とも言えるかもしれない。文学の究極の問題は人間存在に関する問題の追究であるという問題意識はある程度まで共通するところだろうが、そのアプローチにおいて、真正面から捉えているのが「大文字のロマン」なのだろう。白樺派っぽい(?)というべきか、とにかく深刻そうに文学をしている、大時代なスタンスを(多少、揶揄の意味を込めて)指すのだろう。
 そしてそれは笹井賞においては異端となる。なぜか。笹井賞っぽくないから。神野の言葉を借りれば、「大文字のロマン」とは「これまでに多く耕されてきた」(「ねむらない樹vol.8」p57)分野である。これは、笹井宏之が開拓した短歌の表現における新天地とは噛み合わない。つまり、安田の応募作は、近現代の文学の古くからある手法によって作られてきたものとされるのに対して、もっぱら現代短歌における賞レースであるところの笹井賞においては、ルールが違う戦いをやっているようなものなのだ。(選考委員の大森が「最後まで残していた作品のひとつ」としているものの)神野が汲もうとしなければ、本作は書肆侃侃房のハードディスク中に眠る数バイトのテキストデータとして葬られていた可能性が高い。
 また、安田の創作の源泉についても、笹井賞と噛み合わないところがある。笹井賞は、受賞作の出版という副賞が付いてくるが、一冊の本となったときにその連作における強度が維持されるかという点が非常に大きな問題となる。神野もその点について選考会の場で言及している。

笹井賞は最終的に歌集になるということも含めて、連作としてどうか、歌集になったときにどうか。それはつまりその作者の作家性ということにもつながってくると思います。作者がこのあとにどんな作品を書いていくのか。技術とか方向性を選ぶことが作家性を選ぶことにもなりますよね。その重要性、将来性への期待を今日の選考で感じました。

「ねむらない樹vol.8」p68

 50首からなる連作では歌集とするには少なすぎる。少なくともその3、4倍は作品が必要になるところだが、安田の、特に少女時代への追想を大きなテーマとして捉える創作スタイルは、自分自身の創作の源泉の枯渇という問題に、常に晒され続ける。つまり、感傷によって作品を作り続けることはできるかもしれないが、それは過去の記憶の単なる繰り返しにすぎず、段々と希釈されていくのは避けられない。それは、歌集を出版する上でも、作家としての将来性を考える上でも、非常に重要な問題となる。本作のあとがきに、こうある。

身体のどこかが痛むとき、どうしても苦しいとき、一人でいるとふと言葉やフレーズが口からこぼれて、それが作品の一部になることがある。それゆえに、短歌を作る行為は私にとって、膿が排出される感覚に似ている。そして短歌のかたちに収まった言葉は、いつ振り返ってみても傷痕にしか見えない。この歌集を編む作業はまさに、傷をひとつひとつたしかめることに変わりなかった。

掲出書「あとがき」

 安田が感じた痛みは、過去の甘美さと不可分のものだろう。世界に唯一であるがゆえに美しいそのイメージは、触れようとして言及すればするほど手垢が付いていく。思い描いている少女時代を具体的に作品に結実させると、そうではないところがこぼれ落ちていく。いつまでも心のなかにあり続ける思い出は、いつかは古びてしまうし、自分自身の身体も成長していく。しかし、書き残さなければ、永遠に失われ続けるだけだ。だから、安田は短歌を作り始めたのだろう。
 この辺りの矛盾について、思い出す話題がある。

藤崎詩織が死んだ日

 ある裁判例の話をしたい。標題でピンと来る世代の方もいるかもしれないが、いわゆる「どぎまぎイマジネーション事件」についてである。
 事件の内容はこうだ。コナミ株式会社が販売したゲームソフト「ときめきメモリアル」に登場するメインヒロイン・藤崎詩織は、「清純派として人気を博した」キャラクターだった。同作は恋愛シミュレーションゲームとして大変な人気を誇ったが、それにあやかって、別の会社が「どぎまぎイマジネーション」という成人向けのビデオにおいて、原作では描写されることのなかった藤崎の性行為を描き、有償で頒布した。コナミは、著作権と著作者人格権の侵害であるとして提訴した。両者の主張を見てみよう。

(原告・コナミ)
 本件ビデオは、本件藤崎の図柄を用いて性行為の場面を描写した成人向けのアニメーションビデオであって、本件藤崎の図柄における清純なイメージを損なうものであり、本件ゲームソフトの改変をもたらすものであるから、同一性保持権を侵害する。 
(被告人)
 本件藤崎の図柄は、ありふれたもので創作性はない。また、抽象的なキャラクターについては、具体的な図柄を離れて別個の創作性を有する外部的表現形式とならないので、著作権の保護の対象とならない。複製権の侵害はない。
 次に、同一性保持権侵害の有無は、本件ゲームソフトと本件ビデオにおける具体的な図柄を対比することにより決せられるべきであり、イメージを損なったか否かにより決すべきではない。仮に、イメージを損なったか否かが判断要素になるとしても、本件藤崎の図柄における藤崎詩織のイメージは、優等生的ではあるが、清純さはないし、本件ゲームソフトにおいても恋愛がテーマとされている関係上、性的関係についての連想をさせるから、清純なイメージはない。

東京地裁判決 平成10年(ワ)第一五五七五号

 また、裁判所が両作品の間における「藤崎詩織」の類似性について、下記のように認定している。

 本件ゲームソフトにおいては、女子高校生である藤崎詩織が主要な登場人物として設定されている。本件藤崎の図柄は、僅かに尖った顎及び大きな黒い瞳(瞳の下方部分に赤色のアクセントを施している。)を持ち、前髪が短く、後髪が背中にかかるほど長く、赤い髪を黄色いヘアバンドで留め、衿と胸当てに白い線が入り、黄色のリボンを結び、水色の制服を着た女子高校生として、共通して描かれている。本件藤崎の図柄には、その顔、髪型の描き方において、独自の個性を発揮した共通の特徴が認められ、創作性を肯定することができる。
 他方、本件ビデオには、女子高校生が登場し、そのパッケージには、右女子高校生の図柄が大きく描かれている。右図柄は、僅かに尖った顎及び大きな黒い瞳(瞳の下方部分に赤色のアクセントを施している。)を持ち、前髪が短く、後髪が背中にかかるほど長く、赤い髪を黄色いヘアバンドで留め、衿と胸当てに白い線が入り、黄色いリボンを結び、水色の制服を着た女子高校生として描かれている。
 本件ビデオに登場する女子高校生の図柄は、本件藤崎の図柄を対比すると、その容貌、髪型、制服等において、その特徴は共通しているので、本件藤崎の図柄と実質的に同一のものであり、本件藤崎の図柄を複製ないし翻案したものと認められる。

同判決文

 原告・被告人の主張、裁判所の認定のいずれにおいても、藤崎詩織は、徹底的にその個性を解剖されている。「清純なイメージ」と、十数個の列挙で足りる外形的特徴を持った創作物としての証明は、藤崎詩織にとっては実質的な死刑判決だったと思う(特に被告人からの主張におけるあまりの冷淡さには言葉を失う)。表現されないことによって存在することのできる価値というものがあるとして、清純なイメージは、それが清純として指し示された時点で汚れる。外形的特徴による個性は、列挙された次点で個性ではなくなる。
 個人にとって特別なものが、特定のコードによって分解・再構成されるグロテスクさが、この判決には非常に色濃く現れているように思う。安田が過去を歌うとき、過去は短歌の俎上に載せられる。分析の対象となる。安田の中にしか存在しなかった過去(少女)は死ぬ。それは短歌という形では残るかもしれないが、かつてあったようなあり方では存在することはできない。このように、過去を歌い続けるという方法には自ずと限界がある。「作家性」「将来性」という言葉は、この辺りの事情についても考慮されていたのではないだろうか。

「結晶質」という可能性

 神野は、出版された標記の歌集の「栞」に寄せた文章を、下記のような言葉で終えている。私は、こうした事態に陥った人間に対する餞として、非常に温かい言葉のように思った。

安田さんの歌には、「それでも」言葉を信じて光のほうを向き直す、高潔な魂が震えている。あなたがあなたの王であることを誇りに、貫いて歩むこれからの道行きが、どうか清らかな風に満ちたものでありますように。

掲出書栞

 安田は、作歌によって自身の過去を表現した後、どのようにして歌を作っていくのか。事実、その道程はあまり順調なものだったとはどうしても思えない。本書においても、たとえば仕事を歌う作品は、すこし振るわないように思う。時系列的にどのような関係にあるかは定かではないが、作歌の主題として労働を扱うには、安田の手つきは優しすぎたように思う。
 そんな中、本書の中でもとりわけ感傷的ながら、過去を乗り越えるという意味で象徴的な歌がある。

方言をほめてもらったその夜にやっとリボンを捨てられたんだ

「遠くのことや白さについて」

 解説は不要であろう。少女らしさがぎゅっと詰まったようなこの歌に、当時、誌面を見ながら衝撃を受けた。そして、その返歌とも言えるような歌が、おそらく受賞作の後に作られた作品中にある。

澄んだ水のとなりに蛍石を置いてその正面で髪をむすんだ

「蛍石」

 蛍石の正面で髪を結ぶ。澄んだ水から喚起される清新なイメージ。想像に過ぎないが、外出をする前に、戦闘態勢を整えているような凛とした雰囲気が感じられる。「方言をほめてもら」う前の少女が髪にリボンを付けるのとは、まるで訳が違う。
 掲出書の題名である「結晶質」は、受賞作においては雪や氷などに見られる結晶を指しているが、本書の後半においてはその意味が少しずつ広がっていく。上記の作品で言う蛍石がそうであるように、安田の関心は鉱石に向けられる。以下のような作品がある。

石英を朝のひかりがつらぬいていまかなしみがありふれてゆく

「つばさ」

ビスマスのいびつでうつくしい虹をひとみはじっくり映してくれる
おいのりのどこまで本気で祈れるかなんて関係ない 柘榴石
あなたより私が必ず、先に死ぬ そう決めてからふれる金剛

「火の話」

鉱石がわたしに光を投げてくるもらった光をだれかにわたす

「鉱石」

 従来から鉱石を集めるのが趣味だったのかは定かではないが、無機的で、硬質な、それでいて光に溢れるそれを眺め続けて歌を作ったのだろうか。少女時代を感傷的に振り返るような可憐さはここにはなく、関心は外へ向けられながらも、自身の内なる少女性を解体したときのような鋭さが備わっている。とりわけ、金剛の歌は鬼気迫るものがある。ここにおいて「あなた」とは、特定の人間ではなく、金剛そのものの可能性さえあるだろう。
 鉱石という題材を得たということが分かったところで、本歌集は終わる。その後、安田の作品は、いくつかの媒体に掲載されているものの、縁がなくまだ見ることができないでいる。「結晶質」という言葉によって結ばれた過去と現在の先において、今どのような場所で、どのような光を浴びて、どのような遊色を示しているのか。安田にとって、今、短歌を作ることはどのようなことなのか。過去を越える歌うべきものをどのように見つけ出していくのか。次の著作を待ちたい。

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