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大人の「現代文」113……『檸檬』4みすぼらしくて美しいもの

みすぼらしくて美しいものって何?

 

 先回の続きです。
 えたいのしれない不吉な塊に圧迫されて「いたたまれない」私は「みすぼらしくて美しいもの」を求めて浮浪します。でも、これ不思議な表現ですよね。普通「みすぼらしいもの」は「美しくない」ですからね。皆さんどう思われるでしょうか。

 もちろんこれは人を驚かせるレトリックであって、「何?この表現?」と思わせるところが、正に梶井の意図なわけで、こういういわゆる「ケレン味」の世界に読者はだんだん引きずり込まれて行くことになるのですが、あまり違和感を感じさせないところはさすがの技ですよね。

 さて私がどうアプローチするかですが、主人公の言う「みすぼらしい」光景群の叙述の中でも、洗濯物やガラクタやむさくるしい部屋の裏通りに「親しみ」を感じるとか、雨や風が蝕んで土に帰る「街」を「趣のある」と「表現する」ところに、目が行ってしまいます。普段は誰にも省みられることのない風景にホッと救われる主人公の姿が浮かび上がってくるのです。

 つまり主人公はある種救済されているわけで、何かから追いやられていてその傷の治療の為には、絶対に拒否しない、排除しない世界が必要なわけです。ということは主人公は逃避行の中での、逃避を受け入れてくれる場所での「安らぎ」を「美」と言っているように思うのです。つまり「美」は対象そのものにあるのではなく、対象が主人公にもたらす「安心」のなかにあるのです。

 『草枕』の冒頭ではありませんが、人は日常の何らかの出来事に傷つき、ホッとする安らぎを求め、その傷を癒やすものです。主人公のように、始終私を圧迫する「不吉な塊」に追い詰められれば、その自らの救済のため、どんな「みすぼらしいもの」でも、「救済の主になる!」というリアルが、こういう表現を誕生させたように思うのですが、どうでしょうか。

 「汚い」「がらくた」「むさくるしい部屋」ですら、美の担い手に昇格してくるのです。

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