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大人の「現代文」117……『檸檬』8私小説
ひたすら自分の感性
さてこの小説、こうして読み進めてくるとすごく単純な事実に気づきます。それは、まず登場人物が主人公だけであること。従って、普通の小説に不可欠な「他人」が登場しないこと。さらに「登場しなさそうである」こと……。で、実際最後までパラパラめくってみても「登場しない!」ことです。
つまり、人間関係相互の絡みがありません。純粋に主人公の「独白」に終始するのです。従って普通の意味での「叙事」がありません。普通、世の中の「叙事」すなわち「出来事を叙べること」は人間が絡み合うことで生じるからです。ですが、この主人公を、そういう常識的な人間関係を「俯瞰」する、小説本来の読み方はできないのです。
そうです。これがいわゆる日本独特の「私小説」といわれるやつで、ひたすら主人公の独白(もしくは、他人が登場しても主人公の視点にピン留めされるスタイル)で筋が展開するのです。そうすると、面白どころは、その主人公の独自な感性、個性、奇想天外さ(及びそれににまつわる事件)、つまり「次は一体どういう独自な感覚がでてくるの?」という期待感に人を誘い込むか否か、が決定的なポイントになるのです。皆と同じ感想では、「退屈」になりますから。
その点、今までは成功していますよね。冒頭いきなり謎めいた「えたいの知れない不吉な塊」が私を圧迫すると言って、読者の度肝を抜かせておいて、立て続けに、自分は莫大な借金を抱え、肺尖カタルの病気持ちで、神経衰弱にかかっていると言いつつ、それが「不吉な塊」には「直結しないぞ」と断言するわけですから。
でも読み進めると、実はさほどには「強がれない」主人公の姿がチラチラ見えてきます。主人公は傷付いた自分を救済するために、「美」の世界に逃避しようとするわけですが、借金や病気は、やはり執拗に彼を追い詰めてきて、「清浄な布団に横になる」ことや、「二銭三銭」の贅沢もままならない彼の現状を浮かび上がらせます。百歩譲って「みすぼらしい美」と自嘲しても、笑えない現実の悲惨な状況はいかんともしがたいのです。
つまり、逆説的に人間の日常生活の苦しさを語っているところに、この小説の醍醐味がある、ということになりますが、私はさらに「深掘り」したいと思うのです。