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大人の「現代文」58……『こころ』のテーマ、始めます。

「偉大な漱石」が「そんなこと」をテーマにするの?と言った生徒


 前回の続きですよ。
そう考えると、この小説の(少なくともの)テーマは「親友関係」において「人はどういうときに死にたくなるほどの自罰感」を抱くかという、「罪と罰」の話、わかりやすく言えば「人はどういうときに親友との関係においてどうしようもなく深く傷つくのか」というテーマになるのです。

 それを、漱石がわかりやすく小説化したのが、この『こころ』という作品だということです。繰り返します。この小説は日本版「罪と罰」の話、もしくは、日本的倫理の底に流れる感覚はどういうものか、ということを誠実に追究した「倫理の書」であるということです。

 といっても、今述べたことに多くの大人の方は納得されないかもしれません。いや大人のみならず、高校生でも、自立精神に満ちた生徒ほど、これを前もって話すと、首をかしげます。曰く、「え?漱石って親友関係のことをテーマにしたの?そんな小学生的なことを漱石という偉大な小説家は書いたの?」というわけです。

 私は言います。「そうだよ、小学生でもわかるような『感覚』について、小学生では絶対できないくらい徹底的に考え抜いた作家が漱石だよ」と。そして私は付け加えます。もし、漱石が、一部の大人にしかわからないような難解なことを(すなわち実感的にピンとこないことを)小説化したら、評価されると思いますか?と。

 私は、つくづく思うのですが、感性とは、「論理的な構築物」とは異なります。「私は悲しい」理由を、論理を積み上げてその人なりに説明するのは、いくらでも可能です。その人なりに構築した説明は、他人には「難解」
になります。ですから「論争」が起きるのでしょう。

 でも、文学(小説)は「共有された感性」を誠実に表現することですよね。「共有された」感性ですから、「訳がわからない」ことにはならないはずです。「そうか、そういう感覚は自分の心の奥底にあるよなあ!」と思わせてナンボと思いませんか?

 むろん、「個性化」の時代ですから、「みんな違っていい!」のはいうまでもないでしょう。でも、コインには必ず両面があるごとく、「みんなと同じ感性」があってこそ、「人と違う私の感性」も明確に意識されるのではないでしょうか?漱石は、この、自明すぎて今まで誰も問わなかった「みんなと同じ感性」とはなにか、を徹底して追究した本当に誠実な作家と私は思うのです。

 次回より、その具体的な「証明」にかかります。


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