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大人の「現代文」121……『檸檬』12唸らせる「みすぼらしい」美
夜の美
主人公の果物屋の「みすぼらしく美しいもの狩り」はまだ続きます。前回私はちょっと皮肉っぽく、主人公の発言に「ナルシスト」風味を感じると言ってしまいましたが、それは単に批判をしたのではありません。この時代はそれが求められた時代でもあったし、それがなければ「やっていられない」時代でもあったと思うのです。なぜなら往時求められたものは、西洋という巨大な力の圧を受けた、日本人としての、新しい「個の創造」だったからです。
加えて、実際、主人公の「みすぼらしい美」は、その謙虚な表現を吹き飛ばすような、鮮やかな美を我々に見せてくれます。これが、正に梶井の真骨頂ではないかと思うくらいなのですが、次の場面では、この作品の「みすぼらしい美」群のなかでも出色な「美」が登場します。引用しましょう。
またそこの家の美しいのは夜だった。寺町通りはいったいに賑やか
な通りでーといって感じは東京や大阪よりずっと澄んでいるがー飾
り窓の光がおびただしく街路へ流れ出ている。それがどうしたわけ
かその店頭の周囲だけが妙に暗いのだ。もともと片方は暗い二条通
りに接している街角になっているので、暗いのは当然であったが、
その隣家が寺町通りにある家にもかかわらず暗かったのがはっきり
しない。しかしその家が暗くなかったら、あんなにも私を誘惑する
には至らなかったと思う。
まだですよ。これからです。
もう一つはその家の打ち出した廂なのだが、その廂が目深に被った
帽子の廂のようにーこれは形容というよりも、「おや、あそこの店
は帽子の廂をやけに下げているぞ。」と思わせるほどなので、廂の
上はこれも真っ暗なのだ。そう周囲が真っ暗なため、店頭に点けら
れたいくつもの電灯が驟雨のように浴びせかける絢爛は、周囲の何
ものにも奪われることなく、ほしいままにも美しい眺めが照らし出
されているのだ。裸の電灯が細長い螺旋棒をきりきり目の中に刺し
こんでくる往来に立って、また近所にある鍵屋(注)の二階のガラス
窓を透かして眺めたこの果物店の眺めほど、その時々の私を興がら
せたものは寺町通りのなかでもまれだった。
「夜の美」もしくは「漆黒の美」と光の饗宴とでもいったらいいのでしょうか。もはや「みすぼらしいもの」などとは言えない、新たな美の発見と私は思うのですが、皆さんはいかがですか?
注 鍵屋ー喫茶店の名前です