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大人の「現代文」114……『檸檬』5逃避行

現実の私自身を見失うのを楽しむ

 前回、主人公にとって「みすぼらしい美」は「安心」にあると言いました。あるいは、逃避とも……。でも、これを言うことは、この作品の正当な読み方ではないかもしれません。あるいは「要らぬこと」になるのかも……。

 というのも、この作品の醍醐味は、主人公が「みすぼらしい美」を、独特なイマジネーションで次々に描き出す、その特異な絵柄にこそあると思うからです。あるいは、次は何が出て来るんだろうと思わせるその期待感にこそ、と言ってもいいかもしれません。

 というわけで、追っていきましょう。

    時々私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都
    から何百里も離れた仙台とか長崎とか-そのような市へ今自分が来
    ているのだーという錯覚を起こそうと努める。私は、できることな
    ら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたか
    った。第一に安静。がらんとした旅館の一室。清浄な布団。匂いの
    いい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。そこでひと月ほど何も思わず横に
    なりたい。願わくはここがいつの間にかその市になっているのだっ
    たら。-錯覚がようやく成功し始めると私はそれからそれへ想像の
    絵の具を塗りつけてゆく。なんのことはない。私の錯覚と壊れかか
    った街との二重写しである。そして私はその中に私自身を見失うの
    を楽しんだ。

 本人も言うように、主人公は、「みすぼらしい美」の絵柄を二重に重ねて行きます。でも、あれあれ?これって文字通り「身体的安息」への希求でしたね。冒頭「肺尖カタルがいけないのではない!」とは言っても、それはそうはいかないでしょう。当時結核は不治の病ですから。なにごとでもないように言っても、彼を深く傷つけていることは隠しようもありません。最後を「私自身を見失うのを楽しむ」という、つれなく締めるところが切ないです。 
  



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