大人の「現代文」……『羅生門』9これむしろ、人間性は「無悪」の証明なのでは?
『羅生門』の証明したものは何でしょうか?
前回の続きになりますが、国博体験で私はホントに考えてしまいました。でも正直言うと、長年おぼろげに思っていた『羅生門』への疑問が鮮明化したようにも思ったわけです。
それは、この作品は「悪」を描いていない。と言うより、むしろ「悪」の心を持てない日本人の心性・真性を逆証明している作品だということです。
それを、西洋では「悪」の芸術がある。だから日本にもあるはずだ、という思い込みで、無理矢理、形象化しようとしたのがこの作品であるということです。それがあまり指摘されず(すいません。されているかも知れませんが)何十年も、たとえば高校生用便覧などで「人間のエゴイズム!」というお題目のような文言を唱え続けているのはおかしいのではないか、という疑問です。
もちろん、これは芥川の功績を否定するものではありません。そういう西洋への憧憬、思い込みは当時としては致し方なかったことだと思います。ただ、芥川は抜群の読書量と、卓越した文章技術と論理的表現ができる資質を備えていたので、それが本来ムリなことであるにもかかわらず、「ムリを超えてそれなりに」やってのけてしまったんだというわけです。その意味で芥川はすごいと思うのです。
加えて今でも「西洋の〇〇が言うように……」という引用が「普通」なように「西洋の言説が規範」感覚はありますから、芥川の時代、おおーすごい、悪を描いた!これはまさに「西洋的」「近代的」「自我」を手にしたのだ!これが「近代文学だ!」と評価したのもうなづけると思います。「近代」って「自国の文化伝統はひとまず措いて」「思い込む」「振る舞う」ものだったように思うのです。
でもいくら振る舞っても、ムリはムリですよね。この作品を読んで芥川の文章力に驚く生徒は沢山いますが、こころから「悪の美」に感動した生徒は今までの経験ではあまり(というかほとんど)いなかったというのが、私の教師としての実感です。多くの生徒が、「人は状況が悪くなると悪いこともしちゃうもの」と「知って」なんだか自分が怖くなったという「要らざる不信感!」に目覚めちゃうわけです……。
……ので、私は、上のようなことを述べて、授業を収めるようにはしています。大人の方はどう読まれました?