大人の「現代文」108……鷗外・漱石に見る日本人のホントの「ことば」
人間の関係は半径の世界から
鷗外・漱石の偉さは「飾らない」ことと言いました。私が言いたかったのは、彼らが西洋由来の最新流行語を使って、自分が特別な人間だと「飾らなかった」ということですが、それは、彼らが、そういう「ことばを知ってて敢えて使わなかった」というより、そもそも日本人にとって一番大切な「ことは『ことば』では表現できない」という逆説的なことを知っていたからではないかと思うのです。
わかりづらいことと思うんですが、私たちが一番大切にしていることは、絆というものを、どれだけ「実感しあえるか」ということであって、西洋風の、独立した人間関係で双方を説明し合う「論理の厳密さ」ではないということです。「実感」とは他者との親近感の実感であって、その度合いは比喩するなら、自分中心の半径1メートルくらいの円から、だんだん広がっていって、ずっと向こうの方に行くと人が見えなくなって「赤の他人」になってしまう、そういう円の広がりのような「感覚」です。
そして人は抽象的な「ことば」を支えにして生きているのではなく、こういう他者との「親近感」すなわち「感覚」を支えに生きている。おそらく西洋と日本の決定的な違いはそういう「人間の関係性」に対する捉えが根本的に違うと、鷗外・漱石は知っていたのではないかと思うのです。
日本文化には人のあり方として、「ことばに頼らない」ありかたすなわちたとえば「私は人権を尊重してます」という「論理」が優先されるのではなく「その人がどれだけ自分のそばにホントにいるのか」という「実感」こそが最も重要という暗黙の約束ごとがあると思うのです。言語とか論理が人を支えるのではなく、正に寄り添う人が支える。でもそれはあくまでも「感覚」でしかありませんから「理屈」や「かっこいいことば」を負託することはできないのです。
しかしまた一方で、人間は「ことば」を修得することで「認知を確かにする」ということも厳然たる生物学的事実ですから、西洋由来の思想、すなわち、「ことばと論理こそ人間精神の基本」という発想も現代日本人として受け入れざるを得ず、ここに、ディレンマが生じるのです。
こういう日本人の実感をがんばって哲学用語に変換したのが、かの和辻哲郎の「人間のあいだがら」というタームではないですか?