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大人の「現代文」110……梶井基次郎『檸檬』を読みます。

えたいの知れない不吉な塊

 ちょっと間が空きましたが、芥川・鷗外・漱石以外の現代文教材について触れてみます。これらが、果たしてきた役割を振り返ると、鷗外・漱石の偉大さがまた改めてわかりますので。

 長年の現代文の歴史の中で、鷗外・漱石以外にも、教材として圧倒的な支持を受けたのが、中島敦の『山月記』、梶井基次郎『檸檬』、志賀直哉の『城崎にて』でしょう。これらがなぜ強い支持を受けたのかはおいおい明らかにしますが、まずはこの中から、梶井の『檸檬』について触れてみましょう。
 
 この小説は、いわゆる「私小説」でありまして、登場人物は主人公「私」だけであり、起こった事件は、主人公が丸善に行って、美術書の棚から次々に画集を引っ張り出し、パラパラめくった後、後片付けせず、それらの画集の上にレモンを置いて、何食わぬ顔をして外に出る、という話です。
 
 もちろん、その「行動」だけ見ると、その非常識な行動に「何だこりゃ」となってしまいますが、要はその行動が、どういう経緯で行われ、どういう心理が絡んでいるかが面白どころであって、読者は、そっちの方向からリードされるので、常識的には「非常識な行動」が、俄然「文学」として脳裡に刻みつけられるわけです。

 で、その心理に注目しながら、それがどういう理由で「文学」になるかを探求しましょう。 

 この小説、冒頭から、読者はあるテーマを突きつけられます。こんな
感じです。

   えたいのしれない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。
   (第一学習社教科書より 以後同じ)

 強烈ですよね

 でそのあと、おもしろいことばが続きます。

   焦燥と言おうか、嫌悪と言おうかー酒を飲んだ後に宿酔(二日酔い)   
   があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやってく  
   る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。結果した肺尖カ
   タルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金など
   がいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。

 謎めいていますよね。 
 次回に

 


 



 

 

 

 

 

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