【ショートショート】あっけない昨夜の話
早朝、春の熱気を乗せた始発電車は、思っていたよりも混んでいた。ふらつく頭を抱えつつ、なるべくなんでもないふりをする。誰も私のことなんか見てないけど、何となく居心地が悪くてそうする。
いつも通りの電車の音に、少し安心する。何気ない顔で窓側の席に座る。隣に座ったサラリーマンの大きな黒に、どすんと椅子が揺れる。
夜のことを思い出す。久しぶりのオールで、頭がくらくらする。薄暗いいちばん大きなカラオケの一室で、多分誰かしらがずっと歌っていたんだと思う。スクリーンのカラフルが、時々目に眩しかった。
机に散らばったお菓子の山。誰が飲んだのか分からないコップに口をつける。ひっきりなしに人が出入りしており、もうここに誰がいるかなんて分からない。
そんな中で、私の隣にずっといた、あの人の顔を思い出す。薄暗い部屋の中で、やっぱりその人の顔も薄暗かった。その人が私の手を握ってきたこと、私はその意味を聞けずに出てきてしまった。
もう、多分会うことはない。散らかった机の上のマイクを取って、私の好きな曲を歌うあの人の顔を思い出そうとする。安っぽいカラオケのBGMで、本人映像なんてありえないほどのマイナーな曲。なんであんな大人数の前で歌えたのか。私は1曲も歌わなかったのに。
大人数のカラオケは苦手だ。だから1曲も入れずに、ただお菓子を流し込む。話しかけられたら少し答えて、また少し目をつぶる。なんで私はこんなところにいるのか、時々よく分からなくなる。つまらない私に、ずっと話しかけてきたあの人の顔が薄れていく。そして、電車に揺られながら、どんどん夜の記憶が薄れていく。
いらない記憶は、こうやって消えていく。
ヘッドフォンで締め付けられた頭が、少しがんがんしてきたころ、隙間から最寄りの駅名が聞こえた。止まる直前に立ち上がり、隣に座っているサラリーマンの大きな黒をまたいだ。
こんな朝早くに、最寄りの駅に降り立つのは久しぶりだ。春の風がまだ少し寒く、まだ冬がいることを教えてくれる。ヘッドフォンから、こんな春の日に似合わない、ラウドロックが流れる。
タイミングの掴めない改札に、いつもたくさん止まっているタクシーに、私の白い車。
帰ったら、お風呂に入ってすぐに寝よう。
そう考えている頃には、夜の記憶はなくなっていた。オールした日はいつもそうだ。その夜の記憶なんか、全部消えてしまう。後には何も残らない。きっと、他のみんなもそうなんだろう。なのに定期的に夜に集まって遊んでしまうのは、その記憶と一緒に、嫌な記憶も消えるからだ。あの人の顔は、もう思い出せない。連絡先も知らないし、苗字もあまり覚えてない。その人の歌った歌が、車から流れてきた。タイムリーだと思った。入ってくる車の流れに逆らって、アクセルを踏んだ。
その時、視界の端にスマホ画面が光った。
誰かからのメッセージかも知れない。
次、赤信号で止まったら見てみよう。
車から無機質なアナウンスが流れる。
「5キロ先、渋滞です。」