風を切って走れ
右足左足のリズムに合わせて、右腕左腕そして呼吸のリズムも乾いた音となり髪をなびかせている。
あと何本の電柱を過ごしたら棄権しようかと密かに、自分との賭けに出ているなんて誰も知らない。
ただの学年マラソン大会じゃないか・・・せいぜい180人程の同学年女子の田舎のマラソン大会に私は先頭を走っている
去年も、確かに同じ状況で私は棄権したいと考えていたのだ。
辞めるのは続けるよりも簡単だ
止まってしまえばいい
例えば、お腹が痛くて走れないとか頭が痛すぎて走れないとか何かを理由に辞めていいのだ・・・だって小学生なんだから。
何故辞めないんだ
何故電柱を数えるんだ
もういいよ、もう辞めていいんだってば
この大きな登坂の後は、ぐっと楽に下れる坂がありそこには、応援に来てくれている生徒たちや近所のおばちゃんたちが
「がんばれーもう少しでゴールだよ」
そう言って手をたたいたり、ジャンプしたりしている人がいるわけで私も
その気になってきてしまうんだ、どうせならゴールのテープを万歳スタイルで切りたいじゃないか・・・・
そんなことを、中学でもやっていた。
しかも、転校して新宿でも走る事になるとは・・・・進学校にたまたま入り話が合わないないので、ぐれてヤンキー風にしてみたり喧嘩して逃げたりしていても、足が速いという事はいろんな意味で活用されるわけだ。
頭がよろしくない私は、勉強以外で秀でるしか道がない・・・
別にぐれにぐれて、暴走族とかそちら系に行くのは新宿に居ればエスカレーター式に入れるという事だが、私は団体行動が苦手なため無理だった。
走るという事は、やみくもに走ればいい訳ではなくペース配分や風向きや
ランナーの特徴を分析しておかないと、振り回されるというか馬の様に走らされスタミナが切れて最悪倒れる(酸欠になるという)
毎日の練習は、全く地味だ
柔軟体操からの、神社の階段上がりをうさぎ跳びひたすらトラックを時計に勝つため走りまくるりのゲーターレードに薄切りレモン氷を飲みまくる
まるで華がない・・・スポーツの練習に華なんてあり得ないのだけど。
「何故?貴方は走るのですか?」と例えば池袋の駅前の交差点で
「アンケートなんですけど、聞いてもいいですか?」に近い感覚で自分に聞かれたとしよう。
それはそれしか目立つことが私の能力として無いからです。
今ならそう言えよう
「仮に走れたとしてね。」
「え?
今走れないのですか?」
「はい、歩けもしませんし風を切るなんて想像の賜物だと言えます」
そう答えたら、無言でそのアンケートを聞きに来たおばさんは居なくなるでしょうね。というか、あのアンケートおばさんは何なんだ?と思います
こそこそしている
どうどうとしてはいけない何かがあるんだろうな。
そういう、想像力だけは前から変わらずむしろ磨かれて漆よりもつやつやかもしれない。
話は変わりますが、毎日散歩する運河沿いなんかは風があります(運河だからね)
東京の運河は淀んでいる・・・なんか変な匂いがするけど、静岡の田子の浦や富士市に比べたらさわやかな匂いだ。正し、ビルが多いので暴風という勢いの風が舞うのだ。
ぐるぐるとビルの隙間に回り込みながら、下から上に巻き上げるので車椅子等で佇んでいれば、フローズン車椅子になると思う。
冬は、この場所で走るのは良くないと結論が出来た
強いていうなれば
車の助手席から顔を出すという行為なら、風を切れるが走っているのは車で
自分の運転ではないため、人任せとなるのだ。
でも、電柱や交差点他信号も選べるのだ・・・何が?
止まろうが走り出そうが、自分の間合いで写メを取りいかにも自分が風を切っているのかとつぶやく事は出来るし、実際風を感じているのだから。
私は、来年亀並みの歩みだとしても自分の足で歩きたいと強く思っていて
例え1本しか足が使えなくても、なんとか工夫して歩くんだ!と決めている
先ずは、肝硬変の治療を優先しコロナにかからないように出来ることをして
ご飯を自炊し、リハビリという実生活をやり遂げる事が今の私が感じられる命の風だ。
あの電柱は、まだ私の中にありやり過ごさなきゃゴールは見えなくて
応援してくれるおばちゃんも、私に気が付かない。今回の場合棄権は出来ないレースの為、先ずはオンテーブルに乗らなきゃ始まらないというところでお話を締めたいと思う。戦える状況があるから風を切って走れるんだよね。
続く