時に愛は~オフコース(1980年)

 小田和正&鈴木康博を中心としたオフコースが1980年に発表したアルバム「We are」。「時に愛は」は、冒頭を飾る美しくて激しい曲だ。

 私は北海道の東部のまちに暮らしていた。この年に始まった「We are」ツアーで、オフコースが地元でライブをすることを知り、チケットを買い求めて参加した。

 武道館ライブなどのチケットが好調だった反面、地元での売れ行きはそれほどでもなかったらしく(会場は満杯だった)、最初で最後のオフコースライブだった。私が座った席も前から4-5列目の良い場所で、松尾さんのパフォーマンスを堪能した記憶がある。

 同じ高校に通う人たちが何人か会場にいて、その中の一人がファンクラブに入っていたらしく、「今回のライブは「愛を止めないで」で始まるパターンと「時に愛は」で始まるパターンがあるようだ」という情報が私たちの間を駆け巡った。

 私はレコードと同じように「時に愛は」で始まるパターンがいいな、と思いながら開演を待った。

 緞帳は上がったままで、開演時間になると暗闇の中左右の袖からメンバーが持ち位置につくシルエットが見えた。

 ジローさんのスティックが二度、音を立て、私の体温がその瞬間、急上昇するのが分かった。「やった!時に愛は、だ!」。鈴木さんのギターがイントロを奏で始め、真っ白な背景の舞台がライトに照らされ、浮かび上がった小田さんの姿に乙女たちの黄色い歓声が上がった。

 ライブは「We are」を全曲総なめした贅沢な構成だったと記憶している。このほかに「愛を止めないで」「思いのままに」「生まれ来る子どもたちのために」などを聴いた記憶があるが定かではない。「さようなら」は聴けなかった。

 オフコースはコーラスを重視したパフォーマンスがウリで、小田さんの透明感のあるハイトーンボイスと、鈴木さんのファルセットやチェストボイスが重なると、ホーミーと同じような快感を感じるので私はそれが大好きだった。

 彼らも自分のウリは理解していて、レコーディングは複数チャンネルをふんだんに使い、小田&鈴木+αで4-5重奏のハーモニーを実現した。合唱を経験していたという小田さんのアレンジは秀逸以外の何物でも無く「エンジニアが丹精込めて作り上げた緻密な芸術作品」だと、私は今でも思っている。

 ただ、それには一つだけ弱点があった。ライブでは小田or鈴木どちらかが主旋律を取らなければならず、コーラスが1音減ってしまうか、両者以外の声でカバーしなければならなかった。このため「ライブのハモがレコードに比べて少し弱いな」と、私は「We are」に先駆けて発表された「LIVE」を聴いていて思っていた。

 ところが「We are」ツアーでの彼らのパフォーマンスは、その懸念を吹き飛ばすエネルギーがあった。特に「きかせて」の間奏部ではミラーボールからの明かりが揺らぎながら場内をてらす闇を、美しいハーモニーがアーバンライクに染めていく様に、深いため息が出たほどだった。


 

 小田さんは、前作のオリジナルアルバム「Three and Two」以降、バンド編成を意識してライブでの演奏を想定したビートと力強いメロディー、コーラスラインを意図的に盛り込んだ楽曲をアルバムに入れ込んだと私は思っている。(後々、音楽雑誌やインタビュー等で、当時のプロデューサーの方針であったことが明らかになっている。これに伴い、鈴木さんが脱退したことも)

 「時に愛は」も小田さんが作詞・作曲した作品。歌詞やメロディー、コーラスで特に奇をてらった気配は感じられないが、Aメロやサビ、アウトロすべてに力を感じる。当時のインタビューで「愛はON/OFFを繰り返すことを表現したかった」という小田さんのコメントも目にしたが、歌詞の重さにこの曲の深さが私には染みた。

 時に 愛は 力尽きて 崩れ 落ちて 行くように見えても
 愛は やがて 二人を やさしく 抱いていく…

 愛が力尽きているのか、いないのか
 崩れ落ちているのか、踏みとどまっているのか
 当事者でも分からない。

 どちらから「力尽きた」と思っていても、相手が「いいや、そんなことはない」と思った瞬間に愛は命を吹き返すことがある。

 昨今、不倫や浮気が蔓延化の兆候を見せ、バツイチ、シングルマザー(ファザー)なる言葉が、当たり前のように飛び交っている。

 「結婚」が役所に提出する婚姻関係のことだけを指していると思っている人が多いことに正直驚かされる。

 「結婚]は、神(宗教や信仰を問わず)に対する所信表明で「契約」だということが、すっかり忘れられているようだ。(これはブライダル産業による結婚儀式のコンテンツ化の影響も多いだろう。最近は信仰心の薄れから「人前式」という、出席者に結婚を宣言して終わりという形式も出ているのだとか…)

 「恋愛」と「結婚」は違う。子どもがいようといまいと関係ない。
 相手を選んで神に宣誓した時から、愛を育む義務が夫婦には生じる。

 「病めるときも、健やかなるときも」は、お互いの健康状態だけを指しているのではない。「好きじゃなくなった」「もう愛していない」。この状態も厳然とした「病めるとき」であることを知らずに、簡単に切り捨てて「先へ進む」ことを選択している人を、多く見かける。

 あくまでも私が知る限りにおいてだが、「その先」は、配偶者がDVや酒・ギャンブル依存症だったという人を除き必ずしも明るいものではない。転職と同じように、一度、土台の歯車が動き出すと、二度、三度と同じことを繰り返す人が多い。

 「再構築」を目指す人も「以前のように仲良く、楽しい家庭」を目標にするから、自分の復讐心を打ち消せずに行き詰まっている。

 「愛」は人によって形が異なり、しかも当事者でも見えない。当然「理想の愛」など、千差万別で答えなどあるわけがない。

 お互いのことに関心を持ち続けられるなら、結婚は墓場にならないと私は思っている。

 「ありふれた日常」とは、お互いのホクロの数やシワや白髪の数を数え合い、ちょっとしたことで笑い合うことができる。根底にあるのはやはり「思いやり」なのだろう。後は相手に対していかに誠実でいられるか。その度合いによって幸福度指数は増減していくと思う。

 ささやかな日常を、日々積み重ねる力が「愛」だと、私は人生の秋を通り抜けながら思っている。

 相手の美しさに心を奪われ、全身と心を通わせて相手に対する愛しさに切なさを感じることも「愛」。このプロセスを情熱的に過ごせた人は幸せだ。日々の積み重ねを自分に課すことなく、自然体に行えるから。私の周りにいる「愛妻家」はこの手の人が多い。

 あなたは僕のことを 信じることに決めて
 ただ黙って なつかしく 僕を見つめている

 「時に愛は」は、この歌詞でエンディングを迎える。

 情熱的な愛には、今どきの老若男女が大嫌いな「覚悟」が伴う。

 鈴木さんと松尾さんのギターの輪唱がフェードアウトしていくが、
 「ホテルカリフォルニア」のように、ハモリには行かない。

 歌詞に登場する「あなた」と、彼女を描写している「僕」の覚悟が
 互いが寄り添うように、それぞれのアドリブが重なり合ってフェードアウトする。

 40年前は、こんな理解でこの曲を聴いたことはなかった。
 だから、一度相手が離れただけで「愛は消えた」と絶望し、もう二度と会うことはないと思い込んだ。数年後、相手から一度だけ電話がかかってきたことがあるが、まともに話すこともなく電話を切ってしまった。
 

  


 

 

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