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【小説】夜の砂漠
夜の砂漠
1
氷の溶けたグラスの底を指でなぞる。酒場のざわめきは遠く、口元だけが動く会話が水槽の中みたいに聞こえてくる。俺はカウンターの端に座り、何杯目かもわからないウイスキーを舐めるように飲んでいた。
「最近、元気ないね」
横に座る彼女が言う。彼女、というのは正確ではないかもしれない。付き合っているわけでもなく、だからといってただの友人でもない。曖昧な関係が、ずるずると続いている。彼女は俺より三つ上で、何年か前までは「夢を追う」と言ってフリーランスのカメラマンをやっていた。今は広告代理店で働いている。彼女はすでに「決断」を済ませているのだ。
「別に」
嘘だ。別に、なんてことはない。俺はこの数年間、ずっと何かを手放すことを恐れていた。仕事も、恋愛も、プライベートも、どれも中途半端なまま、ただ時間だけが過ぎていく。昔はもっと軽かった。あれもこれも試して、ダメだったら次へ行くことができた。でも今は違う。
「仕事、続けるの?」
「さあな」
「辞めたい?」
「まあ……でも、辞めたら次どうするかって話になるし」
「何かやりたいことあるんじゃないの?」
彼女は俺の目を覗き込むようにして言う。視線を逸らし、グラスの氷を指で回す。
「そんなのがあったら、とっくにやってる」
「……そっか」
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
2
酒場を出ると、夜風が肌を刺した。湿った都会の空気。彼女のマンションまでの帰り道、俺は何度も「このままでいいのか」と自問する。答えは出ない。いや、答えはとっくに出ているのに、それを認めたくないだけかもしれない。
彼女の家の前で立ち止まる。
「上がってく?」
「いや、今日は帰る」
彼女は少し驚いたような顔をした。俺がここで断るのは珍しい。
「じゃあ、また」
手を軽く振って、彼女はエントランスへと消えていった。俺は歩き出す。夜の公園を横切り、街灯の下で立ち止まる。ベンチに腰掛け、スマホを取り出す。SNSを開けば、昔の友人たちが結婚し、昇進し、夢を叶えている投稿が流れてくる。みんなが「決断」をし、それぞれの道を歩んでいる。
俺だけが取り残されている。
いや、本当はわかっている。俺だって「決断」をするべきなのだ。ただ、その一歩が踏み出せない。何かを手放すことが怖い。失敗が怖い。間違うことが怖い。
気づけば、空が白み始めていた。
3
翌朝、会社に退職届を出した。
机の上に置いた封筒を見つめながら、手が震えているのがわかった。上司の顔がちらつく。安定した収入、慣れた業務、それらをすべて捨てるのか。
だが、もう戻れない。
俺はようやく、砂漠を歩き始めたのだ。
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