「本当のことをやっている」実感を取り戻すために。「都市林業」から考える、自然との関わりかた|インタビュー: 都市森林株式会社 湧口善之さん
家具を購入する時、住宅を建てる時、どの国や地域で伐採・製材された木材が使われているのか、気にしたことはありますか?
街を見渡せば、街路樹や公園木、庭木などさまざまな木がある一方で、その多くは伐採後、使われずにいます。もし何らかの方法でそれらを良質な木材に変えることができれば、使用する木材はもちろん、私たちと木の関係や、街との関わり方そのものも変わっていくかもしれません。
Deep Care Labがお届けする、サスティナブルな未来をひらくクリエイティブマガジン 『WONDER』では、持続可能性につながるビジネスやプロジェクト、気候危機時代の生き方のヒントになる創造的な実践や活動をされている方にお話を聞くインタビューシリーズを連載しています。
今回は「都市林業」の普及に向けた活動をしている湧口善之さんにインタビュー。街の木を、木材として活用することを前提に維持管理する「都市林業」について、それらが生み出す地域や自然との向き合い方について話を聞きました。
今回のインタビューのお相手
「都市林業」で、新しい文化を立ち上げる
──そもそも「都市林業」とは、どういったものなのでしょうか?
街路樹や公園木など街にある緑地を、木材として活用することを前提に維持管理することです。
木材に適した樹形を意識して管理したり、傷みが入ったりするような剪定はしません。木が大きくなったら伐採し、あらかじめ地域で育てておいた苗木を植えます。 定期的な伐採と更新を通して、木材としての利用効率を高めることを提案しています。
公園や街などでただ眺めるだけの木を、木材として利用できるようにすることで「こういう活用方法があるんだ」「もっと木に触れていいんだ」と発見することになる。それらを通して、街の建物に使われる木材も自然と変わっていくのではないでしょうか。そこから新しい文化が立ち上がっていくことも期待しています。
──街の木を木材として活用するということは、一般的ではないですよね。
そうですね。ただ、かつてはおそらく、適材適所に活かしていたと思います。縄文の遺跡を調べると、今ではほとんど使われていなかったような木が、意外な用途に使われていたとわかる。目の前に自然があり、それらを熟知した上で活用してものづくりをすることが当たり前だったからだと思います。
──環境問題やSDGsといった枠組みがなかったような時代だと思いますが、それにもかかわらず、自然の活かし方を当たり前に知っていたと。
ええ。ですから私たちは、SDGsやCO2削減につながるといった権威づけなしに、街の木を木材として使うことが合理的な選択肢となってほしいと思っています。だからこそ、みんなで活用して“おいしい思い”をすることを大事にしているんです。
環境問題やSDGsにつながるといったことを謳うのではなく、例えばどんぐりを料理して食べてもらうなど、"おいしい思い”をしてもらうことを通して、街の見え方を変えることを意識してきました。磯遊びと一緒ですよね。最初は有象無象にしか見えないのですが、食べられる貝を見つけて、実際に食べておいしかったという体験をすると、「もっとないかな」とつい探し歩いてしまいます。
そういう体験をしている人としていない人とでは、自然に対する解像度が全然違う。解像度が高い人は大抵自然と上手く付き合い、悪いことはしないものです。
身近な自然を愛することは本来当たり前のはずなのに、そういった感覚を失いがちです。「木材を購入した時よりも少し高くはついたけれども、街で育てた木を活用したほうが最終的にはお得だね」と言われる状態を作りたいです。
“コスパの良くない”街路樹を木材にするために
──都市林業の普及に向けて、どのようなハードルがあるのでしょうか?
一番は、コストですね。日本の山に生えている広葉樹は、普通の林業でも100本伐ったら5〜6本くらいしか木材になりません。それくらい木材に適した原木は少なく、コストがかかる上に、量も少ないという課題があります。
一方で、例えば家具を作るにあたって、メールや電話で注文すれば木材が届きますよね。形も揃っていて、必要に応じて取り寄せれば場所も取りません。そうした一般流通材を使って作るのが、市場やスーパーマーケットから野菜を仕入れて料理店をするようなものだとすると、現状、街の木で作るのは家庭菜園の品質も量も安定しない野菜でお店をやるようなものなのです。コストがかかる上に、かけても消費者のメリットを作ることが難しい。
──それでも街の木を木材として活用していくためには、どのような点がポイントになってくるのでしょうか?
まず原木としての状態をよくすることが大事です。街路樹では大きくなった樹木をコンパクトにするために強剪定が行われますが、それによって傷んでしまい、木材用の原木としての品質が落ちてしまう。傷んだ木々が倒木になる事故も起こっていますが、健康で樹形が良い木を育てるという林業のコンセプトを取り入れることで、事故も減り、数十年後には今よりもはるかに質の良い木材を得られます。
現在は、業者が街路樹の伐採や植え替えを担当していることがほとんどですが、「都市林業」という考え方を取り入れられれば、地域の子どもたちが学校でお花や野菜を育てるかわりに、街路樹の苗木を育てることもできるでしょう。都市林業の取り組みでは既に何度も行ってきたことですが、地域の人たちと伐採や製材のワークショップを開いたり、育てた苗木を植え直したりと、街の人たちが担い手となって、木の循環をつくれます。伐採、製材のワークショップを開いたり、育てた苗木を植え直したりと、街に循環を生むことができます。それらを通して、質の良い木材が生み出されていくはずです。
近代建築の限界を打開しうる「都市林業」というアプローチ
──まだまだ普及までのハードルも多い「都市林業」に、湧口さんが取り組むようになったのは、どのような経緯からでしょうか?
そもそもの話をすれば、もともと林業が身近だったわけではなく、木工や建築を職業としている人が知り合いにいたわけでもありませんでした。ただ美術や芸術には興味があり、建築であれば、いろんな素材を扱ってさまざまなことができるので面白そうだ、と感じていたんです。そうして大学で史学科を卒業した後は、不景気真っ只中で働き口もなく、なんとか設計事務所に滑り込み入社をしました。
そこで実務経験を積んでいったのですが、当初は根拠のない自信を持っていて、あまり努力することなく仕事をしていました。ただ、途中からそれではだめだということに気づいたんです。単に作ることと、人々に影響を与えるような芸術性をもって作ることは違う。そこから、自分なりに建築の勉強を始めました。
いろいろな建築や都市、集落などを訪れては、一つひとつレポート記事を書いていったんです。これは史学科で習ったやり方なのですが、論文や文献を読んでは要約をつくるみたいに、体験した建築などのレポートを作る作業を繰り返しました。最初は「良い」「悪い」「かっこいい」しか書けることがなかったのですが、だんだんいろんなことに気がついて「あのとき、すごいスカッとした感覚を感じたけれど、あれは何から生まれているのだろう?」などと、より深い疑問や、背景にある工夫が見えて、夢中になっていきました。
──いわば独学で、建築の芸術性を学んでいったのですね。
良い建築とはどういうものだろう? ずっと大切にされて、世代を超えて愛される建築をつくるにはどうすればよいのだろう? と考えながら、自分なりに試行錯誤をしてきました。
私たちの街では造っては壊され、が繰り返されている。名作と言われた近代建築でさえ、解体されていく。そうした状況に対して「なぜ取り壊されることになるのか?」と考えて試行錯誤を繰り返す中で、「都市林業」という考えにたどりつきました。
近代建築は、建築家によるアート作品のようなもので、地域の歴史や伝統、文化を起点に作られるものではありません。建築家としてのストーリーはある一方で、その地域に暮らす人々にとっての思い入れはない。その原因を考えたときに、「材料」がポイントなのではないかと気づいたんです。
──土地に根付いていない材料を用いているがゆえに愛着がない、と。
かつては地域にある身近なもので住まいや暮らしの道具を作ることが当たり前でしたが、貿易が発達し、グローバル化が進む中で必ずしも地域の建材を使う必要はなくなってきました。建築家も幅広い材料の中から検討するようになり、アート作品や個性的な建築としては面白いのですが、地元で受け入れられるものを作るには違うアプローチが必要だと感じています。
そうしたさなかに、奈良に行って、世界遺産が多くある街並みを見てきました。その建物の多くが、ヒノキや杉など地場にあるもので作られている。とはいえ、例えばそれを世田谷でやろうとしても、原木を加工する場所もなく、先程お話ししたようにコストもかかるので、無理がある。そこで注目したのが、木材にする前提で街の木を育てる「都市林業」というアプローチだったんです。
役割や肩書、トレンドではなく「本当のことをやっている」実感を
──都市林業をいっそう普及させていくためには、何が必要でしょうか? 街路樹を木材へと変えるといっても、個々人が関われる範囲には限界があるような気もしています。
自分たちでやれることをやる、ということです。先日、南町田にある公園と商業施設を取り壊し、リニューアルする大きなプロジェクトがありました。市民参加で公園にある木を製材したり、伐採されてしまう木の足元に生えている幼木を救出して移植したりするイベントを開催したんです。
小さな苗木であれば、お家に持ち帰ったり、市役所で育てたりすることもできますよね。いずれ街の木を使って、大きな図書館を作りたい。そのために、木を育ててもらい、それらを更地になった公園にみんなで植え、最終的には加工も手伝ってもらう。そんな提案を考えていました。
ただ難しいのは、ステークホルダーとの関係です。例えば、公園には指定管理者がいて、ボランティアで活動する方が現れても、好き勝手に動くことはできないんです。市役所に任せようと思っても、日常業務があったり、間に管理会社がいたりと、一筋縄にはいきません。公園の木を伐採する仕事は発注できても、木材として活用する事例はないため、仕様書から作る必要がある。だからこそ、私たちと組むメリットを伝えたり、ホラ話ではなく説得力ある提案をしたりすることが大事になると考えています。
もっと言えば、そもそも地域に暮らす人々がボランティアで頑張らなければいけないこと自体がおかしいと思うんです。例えば、施設を掃除している方や、樹木の剪定をしている方がもう少し役割を広げ、関係者を喜ばせられるような活動ができれば、自然と上手くいくのではないでしょうか。
──ステークホルダーみんなで苗木を育てたり、メンテナンスしたりするという状態が理想なのでしょうね。
そのためには、いかに自分の役割にとらわれず、広く捉えられるかが大事だと思います。「木工家である」「建築家である」といった役割にとらわれすぎてしまうと、本来なら「鉄を使ったほうが良い」と提案すべき場面で、無理やりにでも「木を使いましょう」と言ってしまう。
つまり、役割や肩書にとらわれすぎてしまうと「本当のこと」ができなくなってしまう感覚があるんです。それが私は気に入らなくて......。
──本当のこと、ですか。
少年時代は、これで儲かるといったことは関係なしに夢中になって取り組んでいたことがあったと思います。しかし、そうした「本当のことをやっている」という実感が、現在は失われがちです。
海外のトレンドなどを起点にするのではなく、そうした実感を取り戻していくことから始めたい。例えば、海外では、都市の緑地を持続的に管理する都市型林業管理「アーバンフォレスト」という言葉が広まっていますが、私たちの活動とは全然違います。海外でムーブメントが起きているからと日本でも取り入れようとするのではなく、目の前の人が喜んでくれて「やってよかった」「得をした」と思える状態が一番です。
本来は「あんなふうに生きたい」「ああなりたい」という理想に向かって、理屈がこねられるべきです。能書きばかり言って、自分のやっていることを正当化することは違うと思っていて。もちろん理屈も大事ですが、「本当のことをやっている」実感を持つことが、「都市林業」という自然な仕組みを作ることにつながっていくと思います。
おわりに
以前から、都市の街路樹は、ただの景色になっているなあ...…という感覚が拭えませんでした。「森といえば、都市ではなく里山や地方にいかなければ」ではなく、すでに都市の中に、自然は存在するはず。ただ、その関わり方をぼくらは習ってきていないし、教えられてもいない。どこか勝手に、街路樹のメンテナンスは自治体の仕事だと、思い込んでいる節すらあります。誰もが身近な自然を愛でることは当たり前のこと、と湧口さんは話していました。当たり前のこと、と言い切れるところに、湧口さんの美学があるように感じます。
ケアとは、本来関わり方の様態のはず。それには、食べたり、おもちゃにしたり、育てたり、多様なかたちで戯れることが欠かせません。その戯れやすい状況づくりのために、自身も建築家という役割にとらわれず、また清掃員から施設管理者まで、同様の姿勢に変化することを促しつづける。身近に木に戯れることと、都市林業システムの確立は、そんな泥臭さからはじまっていく。ぼくも非常に勇気をもらえた、対話の時間でした。
(Deep Care Lab 川地真史)
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