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森と自然をどうひらくか:Comorisグリーンリビングラボ探求講座04

2024年8月26日、Comoris グリーンリビングラボの第四回目を実施しました。このシリーズは、Actant ForestDeep Care Labの共催による、都市の森を探索する全5回の講座シリーズです。イベント全体の趣旨や他の回については以下のリンクをご参照ください。 

第四回目は、「森と自然をどうひらくか?ー入会地、コモンズ論からアーバンフォレストを考える ー」と題して、東京大学大学院 農学生命科学研究科 齋藤暖生さんをゲストにお迎えして実施しました。

日時:2024年8月26日 19ー21時
ゲスト(敬称略):齋藤暖生(東京大学大学院 農学生命科学研究科)

齋藤さんは、16年半ほど富士癒しの森研究所という山梨県山中湖村にある東京大学演習林で務められた後、現在は南伊豆の樹芸研究所にて人間と森の関係を繋ぐための研究に携わってきました。

今回は、コモンズや入会地の実践、欧米の自然アクセス制についてお話いただき、これからのコモンズのあり方について考える時間になりました。


人より巨大な存在と向き合うための、知としてのコモンズ

まずは、伝統的な入会(いりあい)の実践の話についてお話いただきました。入会とは、一定の地域の住民が、その土地の森や海などの自然資源を共同で管理して使うことを意味します。齋藤さんは、民俗学者・宮本常一の言葉を引用しながら、人と森の付き合い方を考える上では、コモンズや入会は基本的な考え方だといいます。

人にとって森や樹木というのはとても大きな存在である。これが農地とは大きな違いです。森はサイズ的に人間より遥かに大きい。さらに時間のサイクルも人間より遥かに長い。一個人では対峙できず、数世代にわたった関わり方が必要となります。

そうした大きな存在に対峙するため、様々な国、地域で「みんなで向き合う」というアプローチに収斂してきました。宮本常一の言葉にあるように、人が力を合わせることによって、人のスケールを超えるものと向き合ってきたのです。

齋藤さんスライド

自然を搾取しすぎないルールの存在。権利と義務の循環

また伝統的な入会林野ではみんなのものだからと言って好きに使ってはいけず、そうさせない仕組み、ルールの存在があったといいます。

例えば、「入会地で馬の放牧をしてはいけない」というルールがあったそうです。放牧できない場合、草を人の手で刈って運ぶ必要があるので無尽蔵に馬を飼うことができません。一方で、放牧すると、草を自由に食べられるため、楽に何頭もの馬を一つの家庭で飼えてしまう。つまりこのルールは、有限な資源を使いすぎないよう、歯止めをかける仕組みだったといいます。また草を取るにしても、とってもいい草の量が、薪の場合は木の種類やサイズが決まっていたそうです。木を切る道具も、こっそり切れないようにノコギリを森に持って入ることが禁止され、周りの人に伐採する量を共有するため、カーンと音の響く斧を使うことがルールになっていました。

齋藤さんスライド

一度競争が始まると環境に負荷をかけてしまうので、『口開け』という資源を取れる日や開始日が決まっていました。収穫したものを分配する日も決まっており、村のメンバーがみんな出てきて、みんなの見ている前で公平性を考慮しながら分配されていたそうです。また、山の資源を使うだけではなく義務を守ることが大切でした。例えば、いい草を取るための火入れ作業の参加は義務とされ、欠席した場合には処罰がありました。

これらの権利と義務のセットにより、入会の仕組みが成立していた、と齋藤さんはいいます。

入会というのは権利と義務があって回っていました。私益、共益が享受できるから、山への関心が出てきます。山への関心があるから、共同作業に出てくることになったり、ルールも率先して守ることは守ります山への関心に基づいた作業への参加やルールの遵守により資源が良好に維持され、その見返りの権利として利益、山の恵みが享受できたのです。

齋藤さんスライド

コモンズの宿命ー排除性を高めるのではない形で、フリーライド問題を解くにはー

次に、政治学者、経済学者であるオストロムのコモンズ研究では森をどう捉えているかについて教えていただきました。森林は、下の図では右下のCommon-pool Resources (CPRs)に該当します。

齋藤さんスライド

コモンズとして管理されてきた資源はCPRsと言われ、控除性(競合性)が高く、排除性が低い財のことを指します。控除性は誰かが使うと誰かが使えなくなる、という性質を持っています。森林では、誰かが木を切って持っていってしまうとそれを使うことができません。排除性というのは、その財の利用から締め出すことができるかどうかです。例えば、ペンは自分が持っていれば簡単に誰かに使わせなくさせることができますが、森は繋がっているので、入口が無数にあり他者を締め出すことができません

誰かがとったらなくなってしまい(控除性が高く)、部外者を閉め出しにくい(排除性が低い)。こうしたコモンズは、二つの大きな問題を抱えています。一つはフリーライド。もう一つは過剰利用。放牧地であれば、草が生えてこなくなるなどの資源枯渇が起こります。

齋藤さんは、コモンズがこのような問題を抱えるのは、ある意味宿命だといいます。しかし先ほど紹介した入会のように、長期的に持続してきた場所があります。コモンズでありながらも長期的に持続してきたケースの特徴をまとめた「コモンズの8原則」を共有いただきました。

齋藤さんスライド

例えば、土地やメンバーシップの境界がはっきりさせることで排除性を高める。コモンズに関わる当事者たちが自身でルールを修正できる、などが挙げられています。

コモンズの最大の問題である排除性の低さ。それを高めればいいかというと、そうとも言いきれないと齋藤さんは言います。

齋藤さんスライド

現在、排除性を高めるために、おいそれと山に入りにくい状態になり、気軽に自然を楽しむ機会も排除されています。自然離れが進行することで、自然と付き合う能力も同時に下がってきた。このつけが人間に戻ってくるのではないか、自然の管理や利用の失敗に繋がるのではないか、と懸念しています。

近年は、親の収入によって子供の自然体験の機会の数が左右されることが明らかになっているそうです。親の年収が高ければ高いほど自然体験が多く、自然体験はお金で買うようなものになっているのが現状です。

自然に親しむ文化があるから、自然を守ることができるー環境保全政策の基盤としての自然アクセス制ー

そうした問題を考える上で参考になるのが、「自然アクセス制」だと齋藤さんは言います。特にノルウェー、スウェーデン、フィンランドでは、自然と触れ合う権利が「万人の権利」として認められています

例えば、ノルウェーでは、その土地の所有者が誰であるかにかかわらず、通行することが可能です。徒歩だけではなく、動力のない自転車や馬などの移動も認められています。加えて、ベリーやきのこ、花なども、誰でも自由に採取できます。仕事の休憩時間には、同僚と一緒にベリー摘みにいく風景などが日常で見られるそうです。

イギリスでは土地所有者によって庶民の緑地へのアクセスが阻まれたものの、緑地へのアクセスを求める社会運動の結果、その権利が再度認められるようになったとのことです。

齋藤さんは自然アクセス制の意義を以下のように見ています。

自然アクセスの社会的な意義というのはいろんな国で論じられています。権利として補償している意義というのは色々ありますが、一つは自然とのふれあいが、人間の根源的な生き方そのものであるという思想です。また、スウェーデンの行政官と話したところ、万人権は環境保全政策の基盤だと言っていました。みんなが自然に親しめば、みんなが自然を守るようになる。だからみんなに自然と触れる権利があることが大事です。

一方で、自然アクセスをそのまま日本に導入できるかといえば、なかなか難しいところだそう。

自然に対して自由なアクセスがある国は、人口密度が低い国が多いですね。人口密度の高い国はどうしても限定的な開き方にせざるを得ません。日本は自然アクセス制をもつヨーロッパ諸国と比べて、人口密度が高いです。また自然アクセス制がフリーの国で、全く問題がないわけでもありません。例えば外国人労働者を雇ってベリーの商業的採取が行われたりと、問題視される行為も見受けられます。

多様な関わりが認められていた近代以前の所有権

日本の土地の権利の考え方についてですが、近代化以前と以後では大きく異なります。

齋藤さんスライド

近代化以前では、その土地の針葉樹を領主が囲いこんでいても、その下に生えてくる雑木や下草は、地域の住民が入会で共同で利用していました。一枚の土地の上に複数の関心・権利というのが並存して両立していました。これを「一物多権」といいます。

しかし、明治時代以降は、一枚の土地に対する所有者が決まると、その上も下も全てが土地所有者のものになりました。一物多権に対する「一物一権」です。 

この一物一権の所有権のあり方が、土地をひらくという観点において難しい問題になっている、と齋藤さんはいいます。 

近代の土地所有の制度は、土地所有者による権利の占有が出発点でした。つまり、所有者以外は基本的に排除されてもいい、という基本方針です。これは、経済的利益追求を求める近代化社会においてはとても高都合でした。実際、誰かに邪魔されず、自分が好きなようにその土地の開発、運用できるというのは、投資、事業を行う上で大事なことです。

林業で稼げる森林にするために、みんなのものだった入会林野も公のものにし、生産的な場所として管理、あるいは分割して私有化してしまう政策的な圧力がかかりました。そういう経緯もあり、日本の森というのは基本的に細分化され、その土地所有者を明確にするようになりました。

しかし現在はみんなの山や森が細かく分割され、土地を所有してはいるが使う気がない地主が多い、もしくは所有者不明になっているような状況です。せっかく美しい綺麗な森があっても、所有者以外は誰も手が出せない、指を眺めているだけという大きな問題になってしまっています

コモンズのガバナンスー多種とのコミュニケーションー

最後に、齋藤さんの富士癒しの森研究所での取り組みについて紹介いただきました。

富士癒しの森研究所では一般開放エリアを設定しました。これは研究の一環でもあり、今後、この場所への関わり方の強さや内容によって、それに応じた管理活動への寄与、つまり段階的なメンバーシップがあるコモンズが形成されていくことが想定されています。場所の使い方について、コアメンバーだけではなく、利用者自身もまた秩序づくりに寄与できるようなことも考えられています。

齋藤さんスライド

場の特性に応じた自発的なガバナンスの実践が、コモンズを維持し、コモンズから喜びを得るには必要不可欠なのでしょう。

最後に齋藤さんは、「コミュニケーションのないコモンズはコモンズではない」ということを強調されました。そしてそのコミュニケーションとは、人と人だけのものだけではなく、自然とのコミュニケーションも含まれます。「その場にいる生き物とも真摯に対峙することで、これからのコモンズが見えてくるのではないか」ということでした。 

おわりに ー生きる技としてのコモンズの実践と、土着的なケアー

「秩序を保ちながらも、コモンズをどうひらくことができるか。」

コモンズとの関わりが日常だった近代以前と比べ、現在の都市生活ではその関わりが希薄化しています。齋藤さんのお話を聞く中で、当たり前だと思っていた、『一物一権』という所有権のあり方や「他人の森や自然資源には立ち入ってはいけない」という考えがそうではないことに気付かされました。 

自然との関わりが薄れ、使いすぎどころか、うまく材を使えず手入れ(ケア)の不足に陥る日本中の山や森。これらの人を超えた存在とともに在るために、先人たちが培ってきた生きる技としてのコモンズの実践や技法を再び身に付ける必要があるのではないか。それが、古来からの知恵を活かした、土着的なケアの姿なのだと感じました。

またコモンズの実践には、私たち自らがその土地や状況に応じたルールを作り運用していくことが大切。そうした地道な自治=自律の実践が、コモンズをひらくことにつながっていくのでしょう。

Comorisは、都市部においてコモンズをともにはぐくむプロトタイプの場であり実践の場です。DAO(自律分散組織)コミュニティでもあるComorisですが、今後も各地で試行錯誤を積み重ねていきたいと思います。


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