芸術を公的に助成すべきか?を考えてみた

あいちトリエンナーレ騒動は様々な問題を提示しており、多くの議論を巻き起こした。芸術解釈の問題については、以前にこのnoteにエッセイを書いたのでそちらを見てもらいたい。

しかし、その後もトリエンナーレについての議論を眺めているうちに、芸術を国家などが公的に助成すべきか?という問題が提起されているにも関わらず、それに真正面から応えている議論を見かけないことに危機感を感じた。趣味に金を払う必要はない!とか、西欧でやっているから!と言った安易な理由しか見れない状態は問題があるので、ここではある程度まとまった議論を提示することにした。

一応注意しておくと、ここでは芸術助成の問題を網羅してるわけではない(できるもんか!)ので、これを参考にして後は自分で考えてください。

なぜ芸術を助成すると決めたら内容に口を出してはいけないか?

まず、助成すべきか?という本体の議論に入る前に片付けてしまいたい問題がある。それは、芸術を公的に助成する側(例えば国)が助成する芸術の内容に口を出してもよいのか?である。

答えを先に述べると、公的に助成する側は芸術の内容に口をだしてはいけない。その理由は、もし芸術の内容に口を出したら、一定のイデオロギーを広めたり禁止したりするのと同じ効果があるから、やってはいけない。それはナチスやソ連のやったのと同じことであり、まともな近代国家のやるようなことではない。国家の側が特定の思想を広げたり禁じたりするのを目的に芸術に公的な助成をするのは許されない。私的にそれを行なうのは自由だが、公的にそれを行なってよい理由は私には見つからない。思想を強制する独裁国家でない限り、この理由を見つけるのは難しい。

てか、そんなに思想を宣伝や禁止したいなら芸術助成という隠れ蓑を使わずに、堂々と公金を使って宣伝や禁止して、せいぜい国民やジャーナリストに散々叩かれてください!

公的な芸術助成を純粋な芸術振興以外の目的から切り離せ!

ここで重要なのは、金を出す側と芸術を作る(選ぶ)側が独立している必要性だ。これで金を出す側がイデオロギー的な目的で芸術を助成するのを防ぐことができる。ただ芸術を作る(選ぶ)側がイデオロギー的な可能性もあるが、まぁどうせ誰に助成するかは金を出す側が決めてるのだからおあいこだよね。てか金を出す側の決定が先手で有利なので、決定過程は透明でないといけない理由にもなる。

こうして芸術助成の目的を思想の宣伝や統制から切り離すことがとりあえずできた(ことにする)。他にも地域や経済の活性化なども芸術助成の目的になりうるが長くなるので省略。少しは自分で考えてください。以下では、芸術助成の目的を純粋な芸術振興であることを前提に、それでも芸術の公的な助成が必要か?を議論します。


芸術は国民を教養豊かにするために必要

ヨーロッパでは公的な芸術助成は当たり前のように行われている。そうしないと芸術が衰退するからという理由は後でもまた扱います。しかし、そもそも芸術を公的に促進する必要についての理由が必要だ。憲法を元に公共の福祉を挙げる人もいるが、これでは抽象的過ぎてよく分からない。

実は最近、自分は人文学の危機について興味を持っていて、教養などについても調べている。そこでの人文学的教養を擁護する議論が芸術にも当てはまることに気づくようになった。つまり、人々が良質な芸術に触れることで教養を得ることができ、自らの人間性を高めるのを促進できるのだ。要するに、芸術助成は人々が文化的に豊かな生活を送るために必要なのだ。公的な芸術助成についての公共的な理由にはこれが最も妥当なものだと自分には思われる。

高度な芸術性を持った作品を助成すべきか?

ここで注目したいのは、公的な芸術助成が対象とするハイカルチャーが中心になっていることである。クールジャパン戦略としてオタク文化にも公的な資金が注がれてはいるが、これはむしろ経済的な事業促進の側面が強い。この辺りの文化の話は始めると切りがないので略すが、ヨーロッパの事情などを参照すると、映画も含めて高度な芸術性を体現したハイカルチャーが芸術助成の対象となると考えるのが妥当だ。高度な芸術性は市場主義に馴染まないので公的な助成を行なう理由になるのだ。実はここに教養としての芸術という理由の弱点がある。

ここで述べた芸術教養説は、元を辿ると十九世紀のヨーロッパに遡る。この頃に教養によって人間性を高めるべき説が確立された。大学の教養教育はこうした影響から成立している。しかし、この説の背景にはヨーロッパの階級社会があり、貴族階級が民衆に規範を示すべく教養を高めるべきという側面がある。これを大衆化したのが、現在の大学や美術館である。しかし、ポストモダニズムによる西洋古典の解体や階級社会から階層社会への転換によって、古典的な教養説の成り立つ基盤は崩れ去ってしまった。立派な文学作品を読むと立派な人間になれる…と信じている人は今や少数派である。

高度な芸術が人を人間的に豊かにする説は素朴には信じられなくなり、芸術は単なる趣味の領域へと格下げされてしまった。

芸術家が助成金に依存するのは危険

芸術教養説への評価は各自で下してもらうとして、たとえこの理由を別にしても、芸術の公的な助成には問題があるとする議論を組み立てるのは簡単だ。そもそも、芸術は社会の中で自然に発生し発展していったのであって、それは社会の中にそれを欲する人がいたから起こったのだ。芸術は必要があれば発展するし、必要なくなれば衰退する。その自然な動きに国家が介入する必然性はない。こうしたリバタリアン(自由放任主義)的な理由は、芸術助成に限らず様々な公的資金が導入される分野に当てはまる。

リバタリアン的な理由はどの領域にも一律に当てはめることはできてしまうが、実際には領域ごとに議論しないと理由としては粗雑にすぎる。例えば、教育の場合は国民の最小限の教育基準を満たすために義務教育が必要とされている。医療の場合は失敗時に取り返しのつかない結果(死!)に陥るので、それなりの規制は仕方ないとされる。芸術の場合はこういったことは当てはまるだろうか?

助成すると高度な芸術作品が生まれるのか?

まず芸術は、国民全体に最小限の基準が必要とされる訳ではなく、失敗時に取り返しがつかないこともない。だが、助成が高度な芸術が生まれるのに絶対に必要とも言えない。むしろ、助成は芸術家を堕落させる可能性さえある。つまり、芸術家が助成に依存しないと生きていけないとしたら、芸術家が芸術作品を生み出す目的が助成を受けることになってしまう。そういう中でマトモな芸術が生まれるのかは端的に疑問だ。そこまで助成金は高くないと言う意見もあるかもしれないが、助成を受ける可能性があるだけで(芸術サークル内で)気に入られる作品を作ろう選ぼうという創造性に欠けた心性は生まれやすくなる。

また、これは個人的な見解に過ぎないが、現代はハイカルチャーだから高度な作品である…という訳ではなく、本来は娯楽が目的であるジャンルものの中にこそ高度な作品が混ざっている傾向が強くなっている。昔だったらクラシック音楽こそが高度な音楽作品だとされたが、現代は高度な音楽作品は様々なジャンルの中に広く混ざっていると感じる。しかもその大多数は助成とは関係なしに生まれている。

評価の定まったものだけを助成すればよい?

もし助成が既に評価の確定したものへの助成でしかないとしたら、それは助成する側が世の中(芸術界)の評価に依存しているだけなので、もはや助成が芸術に寄生してることになる。しかし、どうしても公的な芸術助成を擁護したいなら、この辺りで手を打つしかないかもしれない。

ただ極端な例では、モロ現役の現代芸術はやめるのが妥当で、本当の古い古典だけへの助成だけが許されるという狭い助成だけが残る。これでは助成としてはかなりショボい。助成すべき芸術の境界を公的に定める基準をどうすれば決められるのか、結局のところ私にはよく分からない

もうまとめるわ

切りがないのでこの辺りでやめておくが、どうも全体的に芸術助成に厳しい議論になってしまったのは私の元々の意図ではない

純粋な芸術振興を目的にした芸術助成の擁護は難しいように思われる。むしろ、ここでは検討しなかった活性化説の方がふさわしいかもしれないが、その場合は活性化さえ達成できるなら芸術性の高さは重要ではなくなる。もしかしたら、芸術助成の擁護は一般的に難しいのかもしれない。だからといって、今すぐ芸術助成やめますにはならないだろうし、たとえそうしても非難は避けれそうにない。日本にはアメリカのような寄付金文化が発達してないので、助成をやめても代わりがあると言い難い事情もある

とはいえ、官僚による後出しジャンケン的な卑怯な助成金不交付の理由は全く筋の通らないくだらないもので、とても許せるものでない。どうせ助成金やめるなら、もっと正々堂々とした筋の通った議論で出せ!と思う。今の日本の一番駄目なところは筋の通った議論ができてないことで、その点では芸術助成に対する賛成派も反対派もどちらにも共感できない。

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