トリエンナーレ騒動から芸術作品の解釈問題を考える


トリエンナーレ騒動から表現の自由についての議論が盛んに行われたが、芸術の解釈についてはあまり議論を見かけなかった。やっとネットで芸術の解釈についての議論を見かけたと思ったら、芸術のハードルを下げようとして芸術の見方は自由だと宣伝した結果が、今の事態だと批判していた。

問題意識は理解できるが、芸術の鑑賞を再び閉じたものにしようとか、芸術解釈の幅を狭めようという嫌なエリート主義の匂いを感じて頭を抱えた。他にも芸術の解釈に関して問題のある発言をいくつか見たので、自分なりに問題を整理してみたい。

作品の実物を見てない人は勝手な評価をするな!


あるネットの記事で、トリエンナーレに表現の自由展その後について抗議の電話をする人の大部分が実際の作品を見てない人ばかりだったとあった。現代はアマゾンなどのレビューでも実物に触れることなく評価を下している人も多いが、それ自体が間違った非倫理的な行いだ。トリエンナーレに抗議してる人の多くが、正義感から抗議してるのだろうが、(ネット経由でなく現場で)実物を見ないで評価を下してる輩こそが正義に反した非倫理的なろくでもない奴らである。


私も実物は見てないのでここで作品の具体的な評価には触れません。しかし、現場で実物を見た上で「反日だ!」的な抗議することはありうる。この先は実物を見た上で抗議をしていることだけを想定して議論を進めます。

作者の解説は作品の解釈を固定化しない


まず片付けて置きたいのは、作者の解説が作品の解釈として正しいという見解である。この見解は抗議に反対する人がする反論としてよくなされているようだ。しかし、文学理論などの知識がある側からすると、残念ながらこれは安易な間違った見解だと言わなければならない。


もちろん作者による作品解説がどうでもいい訳ではなく、作品を理解する上で重要な資料である。だが、「作者が作品の最善の解釈者である」というのは根拠のない思い込みだ。むしろ、芸術作品には作者が無意識に感じている事が表現されている事も多く、その部分に作者自身が気づいているとは限らない。


だいたい、もし作者の解釈が唯一正しいとしたら、芸術作品を見る事はその正解の解釈を確かめる事でしかなくなってしまう。作者の解説は作品の背景や文脈を知る上で重要ではあるが、それだけで作品の正しい解釈が定まる訳ではない。


作者の解説によって抗議に反論できるとするのは安易な方法で受け入れられるものではない。



この先、話を進める上で確認しておきたいのが、「芸術作品に正しい解釈はない」ということだ。これを前提にした上で抗議に反論できるか?が後半の問題だ。



芸術作品の見方は自由だが、解釈に浅い深いはある


冒頭で紹介した自分が読んだ記事では、芸術作品の解釈が自由だと宣伝した事が今回の事態に繋がったとされていた。しかし、この言い方だと素人は芸術を解釈してはいけない!と言ってるようにも聞こえて、ただの傲慢なエリート主義でしかない。そこでここでは芸術作品の見方と解釈とをあえて分けて考えてみたい。


展示された芸術作品は、誰もが自由に鑑賞してよいし自由な感想を持って構わない。これは個人の内面の自由に当たるもので、これは不可侵でなければならない。作品を見てそれを反日だ!と思うのは自由だ。しかし、それをその作品の意義だと公に主張した場合、それは作品の解釈として人々に受け取られることになる。だが、その解釈が妥当性の高い解釈かどうかは評価を下される必要がある。


今回の反日だ!と言う解釈についても、幾つかの反論を見たのだが、自分にも納得できるものもいくつかあった。ここでは解釈や反論の内実には入らないが、少なくとも反日解釈は鑑賞者に合意の得られているものではなく、その時点で反日解釈を当たり前のように特別視することには問題があると言わざるをえない。


そもそもにおいて、否定的反応はその芸術作品の価値を定めない。マネのある絵画は展示された当時、スキャンダルなものとして批判されたのは有名だが、もちろん今となってはマネの絵は芸術作品として高く評価されている。今では多くの人にも好まれるゴッホの絵画が、生前には見向きもされなかったことも有名である。それどころか、現代芸術においては否定的反応自体が作品の一部として想定されていることさえある。


芸術作品をどう見ようが個人の勝手な自由だが、それを元に芸術作品についての公的な評価や処置を定めようとするのは、芸術に対する無知と無理解でしかない。

芸術作品の解釈は作品や文脈の情報を最大限に巧みに活かす技術である


鑑賞した芸術作品に対してどんな感想を持つのも自由である。しかし、その全ての感想が解釈として等価な価値を持つではない。


車を例に挙げて説明しよう。車に対して、見た目だけで評価を下す人と、機能や燃費まで考慮して評価するのと、どちらが評価として当てになるだろうか?もちろん見た目も大事であるが、やはり機能や燃費まで考えた方が車の評価としては当てになる。スポーツの場合でも、スポーツを選手の見た目(イケメン!美女!)だけで見るのは自由だが、やはり選手の能力や戦術まで分かった方がスポーツの見方は深くなる。芸術にも同じことが言える。


芸術作品においても、作品の部分だけを見てした解釈よりも、作品の全体やできれば文脈を考慮した解釈の方が優れている。当然、解釈に正解はないが、深い浅いの違いはある。私の印象では反日解釈は浅い方の解釈だと思うが、判断は様々な解釈を見て個々で下してみてください。

芸術解釈に浅い深いがあっても、芸術鑑賞のハードルは上がらない


芸術作品の解釈に浅い深いがあると知ると、芸術鑑賞に高いハードルを感じる人もいるかもしれない。だが、それは勝手な思い込みだ。それを言うなら、映画やスポーツにも深い見方のできる人はいるが、だからといって映画やスポーツを見るのに高いハードルがあると思う必要はない。芸術も同じだ。誰もが始めから深い見方をできていた訳ではなく、誰もが最初は初心者だ。


だいたい芸術解釈に正解はないのだから、他人の解釈をいちいち真に受ける必要はない。だからといって、自分の解釈を当然視するのもただの傲慢でしかない。むしろ、特定の解釈を押し付けてくる奴こそが芸術の敵なのだ。より良き解釈は鑑賞者同士の会話から生まれてくるものであり、それを拒む奴こそが真の敵である!

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