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世の中、非正規に甘え過ぎなんだよなぁと思うようになった

最低時給1500円とやらが選挙期間中に話題になったときに、経団連会長が「実現可能なことを言え」と釘を刺していたから、思わず笑ってしまった。うふふ、ご自身は時給何万なのかしら?と。

30年近く前に小倉千加子さんが「主婦は『パート代は子どもの学費のため』といい、決して『食費のため』とは言わない」的なエッセイを書いていたけれど、今さらながら言い得て妙だなと感心している。

私は週に3~4日、朝3時からスーパーで豆腐や卵を並べるパートをしているのだけど、月に40時間働いて、ちょうど私立中に通う娘の学費くらいになる。

運動不足解消という目的で低賃金とわかって働いているのだけど、初めて振り込まれた給料を見たときは軽くショックを受けた。月に40時間といえばフルタイムで1週間働くのと同じ。社会保障の対象外なのにと。やっぱりこういうのは、旦那さんがいることを前提にした給料なんだわ、と。

(ちなみに世間では高いといわれる私立の学費だけど、公立中の子たちが通っている塾代とそう変わらない。中3に限れば塾代の方が高いだろう。だからこのパート代では子持ちは大黒柱にはなれない)

私はこのスーパーの仕事は気に入っている。働きやすくていい職場である。これだけの人数を雇って、豆腐1丁この値段で売っているんだもの、すごいよなぁと。

ただ、エライ格差社会だとはおもう。

というのも、隣で黙々とお肉を並べている社員さんの平均年収は850万円超らしいから(笑)

仮に私がここでフルで働いたら、年収260万円くらいなのかしら?早朝加算がついてである。退職金もないだろうから、なかなか見事な差である。新卒で入社したご褒美ですよ、というには労働人生はあまりに長すぎるかな。


ただ、このワタクシメの最低賃金並の労働力なくして、この豆腐100円、牛乳200円台の世界が成り立たないのもよくわかる。安く働く人がいるから、物価が低く維持されているわけで。最低賃金が1500円になったら、牛乳も値上がりするだろうから、生活の相対的な苦しさは変わらんのじゃないか?なんて思ったり。

仲良しのママ友はSEGsの先進的な取り組みで知られる某外資系店舗の飲食部門で働いているのだけど、やっぱり年収は260万円なんだとか。日毎に来客数の予想を立て、本国に食材も発注する役割も担っているそうだけど、天候に大きく左右される上に、食材が多岐に渡るから物凄いストレスなんだそう。夜中に「まずい、来週は県民の日がある。発注足りてるかな?」と飛び起きるという。で、「これって時給1300円の人間がする事?」とボヤいてる。

某大手のリフォーム会社で働いていた幼馴染は、客の要望を聞きプランを提案し、日程調整、職人手配まで一貫してやっているけれど、時給は1200円。彼女は出産までは超大手の有名企業で正社員としてバリバリ働いていたから、こんなことは朝飯前。なんなく出来ちゃう。職場リーダーを拝命し頑張っていたけれど、ある日「これは1200円の仕事じゃない」と馬鹿馬鹿しくなって辞めた。「時給1300円にするから」と引き留められたそうだけど、「甘えるんじゃねぇ」と言ってやったと。

なんだか、ごちゃごちゃまとまりのない話になってきちゃったけど…。

要するに、幼馴染の言うように企業は甘えすぎなんだな、と。

新卒入社じゃないし、主婦でブランクあるんでしょ?それじゃ、この給料で仕方なくない?と低賃金で働くことが当たり前と洗脳しちゃってるというか。

正社員だったころ、やれ年収●万円以下だと高校無償だとか、コロナ給付金10万円とか、その手のものは正直「おいおい、いくらばらまくんじゃ。いい加減にしてくれよ」と思っていた。

だけど、フルタイムで働いても年収300万にならない世界に身をおき、周りが皆、真面目に働いているのをみちゃうと、こうでもしないと格差は埋まらないよな、と痛感する。

で、103万円の壁が178万円まで上がったとしても、そもそもこうした労働力を1300円なんかで安く買い叩いちゃいかんのじゃないか?と。よくテレビで「178万まで上がれば長く働けて嬉しいです」とスーパーのパートのおばちゃんがインタビューに答えてるシーンが流れるけれど、複雑な気持ちになる。無邪気に喜んでていいのだろうか、と。

オーナー社長でもないのに7億円とかもらってるサラリーマン社長さんとかいるけれど、恥ずかしくないのかなぁ。おタクの社員さんの平均年収800万円でしょうが。こういう輩から6億5千万ぐらいふんだくって、どんどんばら撒け、なんて思っちゃう。


とはいえ、社会がそう急激に変化するとも思えないから、自分がこういう賃金では「NO」というしかないんだろうな、とも。

社会人1年目の学生気分の抜けないひよっこだった頃、直属の上司がよく「目線を上げろ」と注意してくれた。当時は言葉の意味を深く考える余裕もなかったけれど、今は目線を上げることの重要性が身に染みる。

この1年、糸の切れた凧みたいな生活をしているけれど、もう少し休んだら、メセンヲアゲロ、メセンヲアゲロと唱えながら、50代を歩んでいきたい。












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