虫達のたそがれ
「なあ、非道いと思わないかい?」
乳白色のげじげじが、そのか細い腕を震わせた。「ここんちの奥さん、こないだ三丁目のじょろうグモに、神経毒たっぷりの最新式防虫スプレーをしたたる程かけたってよ!」
「ほう、三丁目ってのはどこだっけ?」小さなオレンジ色の脚をしたムカデが砂利の隙間に挟まったまま興味なさげに言った。
「三丁目っていやあ、ほらあの、あそこだ。ここらへんで一番でっかいヒートポンプの裏だわ」
げじげじはいちいち思い出しながら教えてやった。
「ああ、あれか。」小さなムカデは、少しだけ興味を惹かれたようだった。「あのヒーポンはいいよなあ、夜でもあすこの周りは温かいんだ。」
ムカデはうっとりとし、二本の触角を交互に揺らした。
「そんなことはどうでもいいんだわ。」
ムカデの要領を得ない反応に腹を立てつつ、かと言ってまともに話を聞いてくれる他の仲間が見当たらないげじげじは、どこにも怒りのやり場がないのだった。
「それでどうなったい?無事なんだろう?」
ムカデはやっとげじげじの剣幕に気づいたようだった。
「どうもこうもねえよ!あっという間に死んじまったわあいつぁ。」げじげじは憎々しげに喚いた。
「死んだって!そりゃいけねえ・・・おれ、香典はいくら包んだらいいんだろ?」
ムカデは下に曲げた触角でもって、にわかに地面を探り出した。
「ああ、まあ、死んだっつうのは言い過ぎた。」げじげじは事も無げに言った。
ムカデは心底安心した様子であっさりと、
「なあんだ、じゃあ香典はいらないな。」
「でもあいつ、その後丸三日は脚が上手く開かずに歩くのもやっとだったんだぜ。」
げじげじは、台所のシンクに取り残されたトマトのへたの様に、汚らしく縮こまったじょろうグモの脚の事を想った。
「確かに、ちょっとここの奥さんはやりすぎるかもしれんなあ」
いつの間にか、落ち着いた感じのでっぷりと巨大な虫が、オニアザミの茎の根本から顔を覗かせた。「わしら虫けらに近寄って欲しくないのは重々分かるけれども。」
げじげじはいきり立って反駁した。
「ダンゴ虫殿!そんな人間に共感してどうするです、まったく!あなたほどの大人物が?・・・第一、あそこんちは玄関先に生ごみのバケツが置いてあるでしょう、あれが何ともいい臭いを立てるんで、この辺の若い虫はみんな引き寄せられっちまうですよ。われわれみたく、いい加減分別が備わってくりゃあ我慢のしようもありますが、若い彼らに止せと言ったってあの臭いじゃあ無理でさあ。抗い切れねえですよ。それで悪気もなくちょっと覗いてみよう、ってそんな気持ちでしょうね。そこへぶしゅーっと、猛毒のシャワーですぜ。若い彼らは逃げ足だってまだまだ、一網打尽とはこのことですよ。まるで始めっからそれを狙っていたみたいにね。こりゃあちょっといくらなんでも虫の人権を馬鹿にした所業ってもんですよ。この際ちょっと痛い目見せてやらなきゃならんでしょう、我々虫けらが本気を出せば怖いんだってことを!」ひと際大きく喚くと、沢山の脚を波打たせた。
他の虫達も騒ぎを聞き付けて集まってきた。
――何なの一体?
――ゲジゲジが喚いてんだよ
――なんだいつもの事じゃないか、あいつが静かにしてたことなんてあったっけ?
――そうだな、土の中でだって、じっとしてたことなんてありゃしない。煩くって堪らないんだよ
――しっ、今回ばかりは腹の虫が収まらないんだろう。なんたって襲われたじょろうグモは三丁目の同期らしい
――襲われたって、のこのこ出て行きゃあそうなるわさ。あいつもいい加減いい歳なんだろう?
――同期って、何さ。人間じゃあるまいし
――何だ知らないの、今流行ってるんだけど。人間風な言い回し
地面の下で、虫達は賑やかに触角を触り合った。
ムカデは「ばかばかしい、俺たちに人権もへったくれも、あるもんか」とふくれて、小石の隙間から、土の中に潜っていってしまった。
「いや、実際われわれは気持ち悪いしなあ。自分達で自分達の事を虫けらなんて呼んでしまっているというのも、弱者的心理の現れなのかもしれない。それにムカデ氏の言う通り、大人物だの、人権だのと、古くからの我々の世界にはなかった言葉がまかり通っている。君だって、嫌いなはずの人間にかぶれているような所はないかね?彼らを敵に回すのであれば、そういった所から襟を正していかなければいけないよ。まあとにかく暴力は良くない、いくら気持ち悪くて忌み嫌われたって、自衛の手段でない限りこちらからは攻撃しないのがわれわれ虫達の掟じゃないか。掟は絶対だ。」
ダンゴ虫は諭すように言った。淀みなく出てくる数々の言葉は、これがもう何十回目かの同じようなセリフである事を示していた。
げじげじは痛い所を突かれ、言い返す言葉がないのだった。「まあ。それはそうかもしれませんが・・・だって、ダンゴ虫殿はいいですよ、人間の子供にはすごく可愛がってもらえるんだもの。僕たちげじげじなんかとはわけが違うんだから・・・」などとにわかに触角の先に露を垂れ下げる始末だった。
ダンゴ虫は流石に不憫に思い、短い脚でげじげじを慰めた。
「そんなことはないさ、げじげじ君。君の息子さんが人間の子供に無惨にも踏み潰されてしまったとき、私は自分の事の様に悲しくて、三日間は丸まって泣いたものだ。我々ダンゴ虫だって、硬い殻を持っているとは言え、なんだかんだ、いつ何時同じような目に遭うか分からない。それに、人間の子供の手の平に乗っけてもらえるなんてのは、ほんの一握りのダンゴ虫だけだし、大して楽しくもない――何度となく乗ったことがある私が言うのだから間違いないさ――(げじげじが何か言おうとしたが、ダンゴ虫はげじげじの肩に乗せた手に力を込めてそれを遮った)。
――まあ、いずれにしても、だ。我々虫たちが蜂起したところで、我々自身にとって何の得にもならないのだよ。げじげじ君。そんなことをして人間たちを怒らせてみてごらん、却ってムカデコロリがヤケクソの様に撒かれたりして、より一層、我々の危険を増すだけだ。」
「それじゃあ俺たちは、何にも為す術がないってことじゃあ、ないですか・・・。」
げじげじは今にも泣きそうに、こうべを垂れた。
「もちろんそんなことは無い。げじげじ君。例えばあくまでも平和的解決の手段として、奥さんに話し合いの場を設けてもらう、というのはどうだろう?これはこれでいわゆる人間じみたやり方だが、しかしだからこそ彼らに受け入れられ易い、ということも考えられないかね?なあ、皆はどう思う――」
虫達の多くはダンゴ虫の提案に同意した。げじげじは、それが良いことなのかどうか、始めはわからなかった。だが彼自身、人間の恐ろしさは身をもって知っていたし、真正面から闘いを挑めば到底勝ち目がない事は、身に染みて分かっていた。それに何より、話し合いという、虫の地位を人間と同じ高みに引き上げる可能性を秘めたアイデアは、彼の荒んだ心に一筋の光を差し込むのに充分であった。
「俺達一匹の声は小さくても、みんなで声を合わせれば伝わるかな?」
げじげじが呟くように言った。ダンゴ虫はそれを聞きのがさなかった。
「もちろんだとも、げじげじ君!われわれの想いはきっと通じるさ。みんなで声を合わせて、奥さんの耳元で叫ぶんだ。そうすれば間違いなく伝わるだろう。」
げじげじは巨きな先輩を見上げた。その顔にさっきまでの殺気立ったところはみじんもなかった。無数の脚も落ち着きを取り戻し、今は凪の様に、時折脈打つだけだった。ダンゴ虫もまたげじげじを見下ろして、種と自分自身の明るい未来に胸躍らせつつ、英雄的な気分に浸っていた。
「それじゃ、出席可能なものは、あす朝一で玄関先のマット下に集合。都合がつく者は家族も連れてくるように。小さな声だ。数は多い方がいい。明日は歴史的な日になるぞ!」
げじげじ、ムカデ、団子虫。カマドウマに、アリ、カメムシ、芋虫・・・人間達には名も知られぬ、地下の無数の虫達・・・。めいめいが了解して帰って行った。翌日の会議成功の予感に胸を躍らせて・・・。
*
翌日の夕刊、住宅全焼のニュース。
――警察によると火元は玄関であり、出火原因は捜査中であるが、当該住宅に住む主婦Aの放火の可能性も含め捜査が進められている。全身に火傷を負い入院している主婦が回復し次第、事情を聴く予定――。
*
「まったく、こりゃとても・・・香典はなしだ・・・!」
まだ煙の立ち上る焼け跡を背に、小さなムカデは小石の間を土に潜ってどこかへ去っていった。
了