自然は芸術を模倣する
春、庭に咲きほこっていたタンポポがあっという間に綿帽子になり、無数の白い輪に埋め尽くされたことがありました。このときふと思い浮かべたのは、イコンなどで見かける光輪(こうりん)。キリスト教の絵画で聖人を識別するために描かれる輪です。
いささか不謹慎ですが、たんぽぽたちに聖人の頭を、重ね合わせてみるとなんとなくほほえましい。
聖なるものの背後に光が見えるのは西洋だけではありません。仏様にも後光がさし、仏像に光背という装飾が施されることがあります。現代では、あの芸能人、「オーラ」があるね、などと使われます。勢いのある人の背後に感じられる力、ある種の生命エネルギーのようなものを視覚化したもの、とでも説明すべきでしょうか。中国に古来ある「気」の考え方も近い。科学的に明確な説明はできませんが、古今東西を問わず、同じような考えが出てくるからには理由があるはずです。
オーラの語源はギリシャ語の「アウラ」であり、「息」という意味で、古代ギリシャではしばしば魂の担い手とも考えられました。また、ベンヤミンはこの用語を大量生産やコピーの氾濫で現代社会が失った一個性、一回性の意味で使いました。もの(主に芸術作品ですがその)一つ一つに宿る魂のことです。具体的には例えば油絵と写真。絵は一枚ずつ手作業で描かれ、模写しても一つずつ異なる作品となりますが、写真はプリントすれば同一のものが多数複製できます。
複製できない固有のもの、それが魂=アウラです。
聖人、仏様、そしてハリウッドのスターにしてもこれらの人々から時々刻々と放出される固有の力が、光の輪で絵画などに表現された。
たんぽぽ(自然)の姿が、イコン(芸術)を真似た、と考えるのは本末転倒に思えるかもしれません。
むしろ、説明するなら「たんぽぽが咲き誇っていて、それを見た画家が真似た」「芸術が自然を模倣する」のではないか、と。アリストテレスが「詩学」で述べた事態です。
タイトルの言葉、
「自然は芸術を模倣する」
は二十世紀の作家オスカーワイルドの逆説で、ものの見方・前提についての問題を提起しています。
私がたんぽぽ(自然)を見る見方は、聖人の絵(芸術)の見方を真似ている。芸術はものの見え方に影響する。それくらいの力がある。
肖像画が自分に似ていない、とガートルード・スタインに文句を言われたピカソは「大丈夫、そのうち似てくるから」と答えたそうです。このエピソードを紹介しながらネルソン・グッドマンはワイルドの言い方は控えめすぎでむしろ「自然は芸術と言語の産物である」とまで述べています。
現代は科学の時代で、科学的な見方が常識です。
しかし、科学といえども一つの見方に過ぎず、絶対的な根拠はありません。私たちが宗教的世界観を信じていた先人を笑うように、未来の人々に哀れまれるのかもしれないのです。
ものの見方は常に相対的であり、科学的真理といえども実験室で証明される限定された知識に過ぎない。本当の科学者はそのことを知っています。
常識に捕らわれない見方も必要なのです。
「アウラ」「気」「魂」なども怪しい概念と片付けずによく考えてみると面白いでしょう。
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