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デレラの読書録:藤永茂『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』

『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』
藤永茂,2021年,ちくま学芸文庫

第二次世界大戦期に、アメリカのロスアラモス研究所で所長を務めたオッペンハイマー。

その研究所には、その時代のトップクラスの物理学者らが集まり、核爆弾の研究をしていた。

物理学に罪はあるのか、あるいは、罪の所在はどこにあるのかという根本の問いに向き合う本書。

「文学」は、あまりに悲惨な被害を生み出したこの兵器の罪を、物理学者、あるいはオッペンハイマーに着せてきた側面がある。

文学は被害者に寄り添う反面、分かり易くて象徴的な悪役に物理学者を選んだ。

藤永氏は、オッペンハイマーの生涯を丁寧に紐解きながら、この文学的な振舞いとは別の仕方で「核を生み出した罪」を描きだそうとする。


核爆弾の原理は、要約してしまえば非常にシンプルだ。

一言で言えば「人工的に核分裂連鎖反応を起こす」ということ。

では、核分裂連鎖反応はどうやって生じるのか。

ざっくり言えば、原子は、陽子と中性子の粒が固まってできた原子核と、その周りを囲む電子によって構成されている。

この原子核に、中性子をぶつけると、原子核が分裂を起こす。

分裂のときに、原子核内部の中性子が原子核の外に飛び出す。

ようは、原子核に中性子をぶつけると核分裂が起きるということ。

それが連鎖する。

分裂時に飛び出す中性子が、隣の原子核にぶつかり、その原子核が分裂して中性子が飛び出して、また隣の原子核にぶつかる。

この繰り返しである。

この連鎖反応をウラン原子で起こせばウラン爆弾になる。

プルトニウム原子で起こせばプルトニウム爆弾になる。


ポイントは臨界量だ。

核分裂が連鎖するには、ある一定量のウラン原子が固まってなければならない。

逆に言えば、ある一定量(臨界量)を超えた状態で分裂を起こすと、そのまま核分裂連鎖反応が生じる。

したがってロスアラモス研究所では、臨界量の調査や、臨界量を作り出す方法が模索された。

なぜそんなことをする必要があるかと言えば、当然、兵器として人工的に爆発させるためである。


わたしがこの研究過程を読んですぐに連想したことは、なるほど核爆弾は、まさに連鎖的に生まれたのだということだ。

どういうことか。

優秀な科学者たちが、ロスアラモス研究所に集まった。

一人では不可能でも、まとまった数のしかも優秀な研究者が集まることで、技術的な問題が解決されていく。

つまり、ロスアラモス研究所は臨界量を超える研究者が集まっていたのだ。

優秀な科学者が一カ所に大量に集まれば、アイデアの連鎖反応が生じる。

誰かの発見が誰かの問題を解決するというアイデアの連鎖反応である。


では、科学者を集めたことが「核爆弾を生み出した罪」なのだろうか。

あるいは、科学者集団に罪があるのだろうか。


わたしはここで藤永氏が「文学的な振舞い」に警戒していたことを思い出す。

核爆弾の発明を核分裂連鎖反応に喩えることは、まさに文学的な振舞いである。

この文学的な発想は、罪の所在を見えなくする。

では藤永氏はどう考えたか。

それはこのロスアラモス研究所が、国家予算、あるいは多額の軍事予算に支えられていて、そこでの成果物は、国家機密として外秘となり(特に当時は米ソ対立がある)、なにより核分裂連鎖反応は「兵器を目的として」研究され、完成品は兵器として軍に渡されたということ。

実は核分裂の実験だけであれば大きめの机一つで出来る。

一方、兵器の生産を目的とされた研究所は、秘密保持のため閉じられた街を形成し、多額の金を使って総床面積20万平方メートルの工場を生み出した。

「一つ机」と「大工場」の間には大きな飛躍がある。

この飛躍を生み出す力に罪があるのではないか。

では飛躍を生み出す力はどのようにして発生したのか。

それは、軍事予算である。

軍事予算の背景には、当然、第二次世界大戦がある。

つまり、第二次大戦の文脈抜きには、核爆弾の罪は語れないし、所長であるオッペンハイマーひとりだけに罪があるのだもないし、物理学それ自体を悪にできないし、科学者たちだけを悪と言えない。

単純にコレコレが悪だとシンプルに割り切って語れないのではないか、という至極真っ当なメッセージである。


さて、繰り返すが、わたしはこの藤永氏の主張は真っ当であると考える。

文学的な反応、特に藤永氏は、オッペンハイマーを含む物理学者を「原発を産んだ悪魔」という風にして語るような文学的な語りを批判している。

その藤永氏の立場に、わたしは賛成である。

一方で、人間は文学的に受け取ってしまう生き物だ、ということも事実である。

良し悪しは別にして、「文学的な反応をしてしまう」のである。

核分裂連鎖反応の巨大さ、途方もなさ、圧倒的な威力、その崇高さに、文学的な反応をしてしまうということ。

ビジュアルの崇高美。

太陽のコロナ、雷の音、積乱雲の大きさ、ダイヤモンドダスト、火口の溶岩、自然の持つ圧倒的な威力、それらから感じる崇高さ。

そういうものに出会ったときに、ひとは「崇高美」を感じずにはいられない。

その魅力に物理学者は全く惹きつけられなかった、そんな訳ではないだろう。

むしろ、そういう感覚は科学者や物理学者という職業はあまり関係なく、ひとの根に少なからず持つものなのではないだろうか。

罪責の有無を文学的に決めることは、確かに一面的で歪んでいるように思う。

しかしながら、文学性を取り除いては、ひとびとが、あるいは優秀な物理学者たちが「なぜ原子核分裂の連鎖反応に興味を持ったのか」という欲望の説明がつかないように思える。

つまり、物理化学者だけが悪魔なのではなく、ひとはそれぞれに崇高美に突き動かされてしまうものであって、ふと走り出したその延長線上には、机の上の実験器具から殺戮兵器の大工場へと跳躍するためのジャンプ台が置かれていたのではないか、ということ。

ジャンプ台は、時代の流れ、大戦、軍事予算、国家、職場を探す学者、様々な状況によって設置された。

そして、ひとは崇高美によって走り出していた。


核爆弾の罪責の所在と、ひとが核爆弾に惹きつけられること、この2つは近くにありながら、別の基準、別の視点、別の思考によって捉えるべき事柄なのかもしれない。

そう感じた。

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