感想文:記憶は捨象し、爆発は糊塗する(藤本タツキ『さよなら絵梨』)
この記事は藤本タツキさんのマンガ『さよなら絵梨』についての感想文です、ネタバレがあります。ご承知おきください。
web公開と同時に話題になった藤本タツキさんのマンガ『さよなら絵梨』。
わたしも、もちろん読みました。
SNSで人々の感想を見てみると、以下のようなものがありました。
・映画のオマージュがある(元ネタ探し)
・コマ割りが映画フィルムみたいで、手振れ描写などがあってすごい(映画演出)
・絵梨と主人公のデートシーンなどの思い出描写が良い(ミニマリズム演出)
・現実とフィクションが分からないのが良い(メタ演出)
ミニマリズムというのは、過程を省略するような表現です。
デートの過程を描くのではなく、デートと思わせる絵を描いて、読者にデートに行ったことを想像させる。
具体例をあげるなら、生命保険会社のテレビCMです。
小田和正さんの歌をBGMに、子どもが成長する様子を、写真のフェードイン・フェードアウトで見せる、あの演出です。
話を戻しましょう。
今あげた、元ネタ探しも、映画演出も、ミニマリズムも、メタ演出も、わたしがこのマンガから感じたイメージとは合致しませんでした。
ですから、このわたしの感想文では、元ネタも映画もミニマリズムもメタ演出も、脇に置いてしまおうと思います。
わたしの感想文のポイントは二つです。
ひとつは「記憶は捨象する」ということ、そしてもうひとつは「爆発は糊塗する」ということです。
この二つのポイントについて考えるために、まずは簡単に『さよなら絵梨』の構造について振り返ります。
次に、『さよなら絵梨』の構造と二つのポイントの関連について述べて、最後にこのマンガを読んでわたしが考えさせられたことについてまとめたいと思います。
前置きが長くなりましたが、始めましょう、よろしくお願いします。
1.『さよなら絵梨』の多層構造
このマンガは大きく分けて二つ(細かく言えば三つ)の映画フィルムによって構成されています。
第一のフィルムは、主人公である中学生の優太が作成したフィルム。
第二のフィルムは、大人になった優太が登場するフィルムです。
まずは第一のフィルムについて説明しましょう。
第一のフィルムは、実は二つに分かれていて、「優太が母を撮ったフィルム(母フィルム)」と、「優太が絵梨を撮ったフィルム(絵梨フィルム)」によって構成されています。
前者の「母フィルム」は、死にゆく母の姿を記録した映像を、優太がドキュメンタリー映画として編集したもの、とされています。
後者の「絵梨フィルム」は、やや複雑に入り組んでいます。
「絵梨フィルム」は、「母フィルム」を中学校の何かしらのイベント(文化祭?)で発表したものの、誰にも理解されず、笑われたのちに、唯一褒めてくれる絵梨に出会い、映画好きの絵梨から映画の基礎を学びながら、新たに絵梨を主人公にして撮られた映画、という複雑な構造になっています。
また「絵梨フィルム」は、病気で母を亡くした優太が、同様に病気で死にゆく絵梨を撮影しながら、母と絵梨の死を受け止めようとする、という「母の死」を「絵梨の死」によって上書きするような構造があります。
さらに複雑なことを言えば、「母フィルム」は「絵梨フィルム」のなかで登場するものであり、「母フィルム」自体がフィクションである可能性をはらんでいます。(そもそも母は死んでいない可能性がある。)
しかしながら、わたしはここで、「母フィルムがフィクションである」だとか、「母は実は死んでいない可能性がある」ということを主張したいのではありません。
ここでは「絵梨フィルム」は「母フィルム」を包含している、と言うにとどめておきます。
そういう意味で「絵梨フィルム(母フィルム含む)」が第一のフィルムなのです。
(分かりにくいので本章の最後で図示しています。)
では第二のフィルムはどのようなものか。
第二のフィルムは、大人になった優太が登場するフィルムです。
このフィルムを誰が撮影したのか、ということについて、諸説あるでしょう。
単に優太が撮影したフィルムだ、と言うこともできます。
また、死んだはずの絵梨が再登場し、優太に話しかけるタイミングでカメラの視点が第三者視点に変わることから、第三者(藤本タツキ?)が撮影したフィルムだ、ということも可能です。
しかしここでは、第二のフィルムの主体については議論しません。
仮定として「大人になった優太が登場するフィルム(優太フィルム)」とするにとどめましょう。
さて、「優太フィルム」はどのようなフィルムなのか。
絵梨フィルムを取り終えた優太は、その後大人になり、結婚し子どもを持ちます。
しかし、不運なことに、妻子と父が自分が起こした交通事故で他界し、優太は生きる気力を失います。
自殺を決心した優太は、かつて絵梨と一緒に映画を学んだ思い出の廃墟に向かいます。
廃墟で首をくくろうとしたそのときに、突然、死んだはずの絵梨が現れます。
絵梨は実は吸血鬼であり、あの時死んでいなかった。
吸血鬼として復活するたびに記憶を失なうのだが、優太がつくったフィルムのおかげで記憶を取り戻した。
吸血鬼である自分は、優太の撮った絵梨フィルムによって救われたのだ、と絵梨は言います。
それを知った優太は、生きる意味を取り戻し、廃墟を去るのです。
その去り際に、最後、廃墟が爆発します。
つまり「優太フィルム」とは、優太がかつて撮った「絵梨フィルム」を絵梨に承認してもらうことで、妻子を失った悲しみを乗り越えるストーリーなのです。
以上が「さよなら絵梨」を構成する二つのフィルムです。
その構造を以下に図示しましょう。
2.記憶は捨象し、爆発は糊塗する
つぎに「さよなら絵梨」の構造と、「記憶の捨象」と「爆発の糊塗」との関連について考えてみましょう。
記憶は捨象する、というのはどういうことか。
それは第一のフィルム「絵梨フィルム」で語られます。
「絵梨フィルム」内で上映された「母フィルム」は、死にゆく母の姿が美しく描かれているのが印象的です。
「母フィルム」には、健気に微笑む母、ときどき泣いてしまう父、母との一瞬一瞬を大切に楽しそうに撮影する優太の姿の記録されています。
死に向かう母の美しい姿。
しかし、「絵梨フィルム」でその「美しさ」が反転します。
反転する、というのはどういうことか。
じつは、母フィルムは、母の美しい姿を記録したもののように見えますが、じつは、母の命令で優太が撮らされていたものなのでした。
優太は、画角が悪かったりすると母に怒られ折檻されていました。
さらに、母の死に際の最後の言葉は「本当に使えない子どもだ」という趣旨のものでした。
そういう母の「悪い部分」は、優太による編集によって「捨象されていた」のです。
母フィルムに映し出される母の美しい姿とは正反対の姿が、絵梨フィルムでは明らかになるのです。
また、絵梨についても同様です。
絵梨の友人が「絵梨って本当は自己中心的でしょう」という旨の発言があります。
「本当の絵梨はすぐキレるし、嫌な女だった」と。
でも、優太の「絵梨フィルム」は、その絵梨の嫌な部分を編集によってすべて捨象し、切り捨てていたのでした。
ここには、「編集」の本質があると思います。
つまり、美しい記憶、というものは、じつは「汚い部分の捨象」によって成立している、ということ。
映画、映像、マンガ、あらゆる表現物は、「編集」されたものである。
そして、編集は、要らない部分をそぎ落とす行為でもあります。
美しい記憶というものは、じつは、その背景にある「要らない部分(美しくない部分、都合の悪い部分)」をそぎ落としたものである。
たしかに、「要らない部分」をそぎ落とす行為は、絵梨や優太にとっては「救い」であったでしょう。
しかし、同時に捨象して作られたものは、「嘘=虚構=フィクション」でもあるわけです。
つまり、この『さよなら絵梨』という作品は、フィルムが編集されたものであること、さらに言えば、美しい記憶は編集によって「汚い部分」をそぎ落とすことで作られる、ということを表現する作品でもあるのです。
この記憶の捨象は、絵梨フィルムのなかに母フィルムがある、という構造によって、強調されているとわたしは思います。
※この作品において、母の折檻も、絵梨の性格も、それ自体がフィクションなのだ、という反論があるかもしれません。しかし、やはり、その意味でこの作品は「編集されたもの」であり、「何かを捨象している」ことには変わりないでしょう。
さて、爆発の演出はどのように関係してくるのでしょうか。
一般論としては「爆発」は「快楽」を誘発します。
映画などでビルが壊れるシーンは、観客に快楽を与えます。
たとえば、クリストファー・ノーラン監督の『TENET』という映画で、飛行機が倉庫に突っ込んだり、「ゴジラ」が東京を壊滅させたり、ヒーロー映画の『アベンジャーズ』ではニューヨークのビルが破壊され、『ファイトクラブ』のラストシーンでビルが崩壊する。
映画での爆発、破壊、ディストラクション演出の例は、いくらでもあげられます。
何か大きな建物が壊れるとき、わたしたちは、胸がスッとするような快楽を感じるものです。
この爆発の快楽は、小難しい話を覆い隠してくれる機能があります。
では、『さよなら絵梨』の爆発は何を覆い隠してくれるのでしょうか?
『さよなら絵梨』には2度の爆発シーンがあります。
ひとつは「母フィルム」のラストシーン、そしてもうひとつは「優太フィルム」のラストシーンです。
母フィルムのラストシーンの爆発は、母の死への感情を覆い隠すものでした。
では、「優太フィルム」のラスト、つまり「さよなら絵梨」のラストの爆発は何を覆い隠しているのでしょうか?
ラストの爆発は、大人になった優太が自殺しようとした理由を覆い隠しています。
爆発により、自殺の要因は綺麗さっぱり忘れられて、なんか絵梨が救われたみたいだし、優太もスッキリしているし、良い話だったなあと、思わせてくれる。
廃墟が爆発するラストのコマで、優太は颯爽と立ち去っているわけですが、そもそもこの廃墟に来たのは「妻子と父を交通事故で亡くした」からです。
「妻子や父を自分の起こした交通事故で亡くした」という設定が、爆発によって見事に隠され、ただ絵梨と優太だけが救われている。
こういう効果が爆発にはあります。
アベンジャーズにおいても、ニューヨークのビルが崩れれば、中にいた人や、たまたまビルの下を歩いていた人が被害にあっているかも知れない。
けれども、ニューヨークの高層ビルが破壊される演出の快楽によって、そういう事柄は糊塗される。
爆発の炎と煙で塗りつぶされてしまうのです。
思えば、優太フィルムは、そもそも「妻子と父が交通事故で亡くした」ということはセリフで語られるだけで、絵として表現されていません。
事故による家族の死という、悲惨なシーン自体が編集によって捨象されています。
あるいは、交通事故というキーワードは演出のためのフィクションであり、実際には妻子も死んでなければ、そもそも結婚すらしていないかもしれない。
ただセリフとしての「妻子と父が交通事故で亡くした」というキーワードが提示され、インスタントに悲惨さが表現される。
その軽薄さを、その虚構を、その手軽さを、ラストの爆発は糊塗しているのです。
これが『さよなら絵梨』において、爆発が糊塗したものだと思います。
さて、わたしたちは、『さよなら絵梨』について考えてきました。
このように、『さよなら絵梨』というマンガは、美しい記憶というものは編集によって「美しくない記憶(要らない記憶)」が捨象されたものであり、爆発はそれを糊塗する、そういうことが表現されたマンガだと、わたしは思います
3.おわりに
さて、最後に大きく飛躍しましょう。
わたしはこの「さよなら絵梨」を「記憶による捨象」と「爆発による糊塗」という視点で読みました。
そして、わたしは考えさせられました。
じつは、「記憶の捨象」と「爆破の糊塗」なにも特別なものではなく、わたしたちの日常のなかで、普段から起きていることなのではないか、ということ。
わたしの昔の思い出は、いわゆる思い出補正によって美化されています。
あるいは、新聞やワイドショーで見られる「煽った表現」は、爆発の快楽に似た効果があるのではないか。
さらに時事問題に引きつけましょう。
わたしたちは2022年4月現在、海外で起きている戦争の様子を、スマートフォンで見ることができます。
ミサイルのようなものが住居マンションに突っ込み、爆発し崩れていく映像。
その映像は、遠く離れた場所にいるわたしにとっては、一寸「破壊の快楽」を感じさせます。
しかし、崩れていくマンションは、もともとは人々が暮らしていて、生活があり、笑いがあり、怒りがあり、苦しみがあり、楽しみがあった場所です。
爆発の快楽は、それらの生活を爆炎によって糊塗してしまっています。
あるいは、どちらか一方が悪者であるという風な演出によって、良いものと悪いものを二項対立で語り、悪いものとした方を糾弾するような映像もあります。
あらゆる映像は、何かを捨象している。
真実だけを撮影した映像というものはない。
代わりに、映像には「快楽」がある。
その快楽は「見ているモノが真実かどうか分からない」という映像の持つ複雑さを糊塗してしまう。
この感想文は、あまりに『さよなら絵梨』から外れているかもしれません。
また、ナイーブすぎる見方かもしれません。
現実で戦争が行われているからと言って、爆発表現は「不謹慎」だから否定されるべきだ、と言いたいのではありません。
わたし自身、爆発演出のある映画やマンガ、創作物が好きです。
観ていて気持ちがいい、楽しい、面白い。
ヒーローが街を壊しながら、敵と戦うシーンを、この強敵に勝てるのか!と手に汗握って観ています。
しかし、その背景には編集によって捨象された記憶があること、映像の快楽によって悲惨さや複雑さが糊塗されていることを、わたしは無視できない。
捨象され糊塗されていることを無視して、手放しで映像を賞賛することができない。
このマンガは、悪いマンガだ、と言いたいのではありません。
むしろ、『さよなら絵梨』というマンガは、「記憶の捨象」と「爆発の糊塗」によって成立していながら、作者がそのことを分かってやっている、とわたしは思うからです。
わたしは、そのように考えさせられました。
あなたは『さよなら絵梨』をどのように読んだでしょうか?
おわり