感想文:砕かれてしまった後に(楼『聖薄荷教徒』)
自分の軽薄さを覆い隠すために、信念という服を着ていたのだなあ、と今になって考えると、そう思う。
あれは、信念と言うよりも、あるいは教義と言った方が良いのかもしれない。
高校生から大学生を卒業するまで、わたしは何者でもない自分に自信がなく、虎の威を借る若者だった。
権威にすがって理屈を構築し、他人の言葉を借りて自分を大きく見せていた。
三十代になっても結局何者でもない今のわたしからすれば、曲がりなりにも自分を大きく見せようとしていた当時のわたしの甲斐甲斐しさに苦笑してしまう。
少なくとも今は、あの頃の教義は粉砕されてしまった。
今の人生、今の生活はその粉砕の後に続いている。
この先の人生は、大筋は予想がつく、それでもわたしは、どこか行方知れずの不安を抱えている。
不安に襲われるのは、信念=教義を失ってしまったからだろうか。
大学時代からの友人である楼氏の新作マンガ『聖薄荷教徒』は、当時の軽薄さと、砕かれてしまった信念と、その後の行き先の不安感を抱えるわたしに、ある種の安らぎを与えてくれた。
物語を簡単に要約してしまえば、「聖なるミントモンスター」という笑える教義を抱えた弟が、その教義を砕かれ、行方知れずになり、それを心配する兄が、ドキュメンタリー風に撮影したインタビュー動画を、地方の放送局(?)で放映することで、行方知らずの弟に帰ってきてほしいというメッセージを伝える、そういう物語である。
兄は、きっと後悔していたのだろう。
そもそも「聖なるミントモンスター」という教義を教えたのは兄自身だったからだ。
弟は、ある日、道を歩いていると、眼の前で近所に住むおばさんが荷物をぶちまけていた。
それを弟は見て見ぬふりをして助けなかった。
他人を助けるのを躊躇してしまった自分の軽薄さを、弟は思い悩んでいた。
それに対して兄は教義を授けたのだった。
教義の内容はいたってシンプルで、「誰かのために」と思わなくてもいいから、ただアイスをおいしく食べるために必要なことをする、ということ。
それ以降、弟は悩むことなく他人を助けられるようになった。
ただミントアイスを美味しく食べるために他人を助ける。
弟は何でもした、他人が迷惑がるとか有り難がるとかはどうでも良かった。
次第にそれは先鋭化し、ついに、眼の前で線路に飛び込もうとする他人を、身を挺して助けようとした。
それを兄は止めた。
教義を与えた兄が、教義に従っている弟を止めた。
弟はおそらくダブルバインドに陥ったのだと思う。
教義ニ従エトイッタ兄ガ、教義ニ従ウコトヲ止メタ。
こうして教義は砕かれてしまった。
たしかに、こんな安易な教義なんて砕いてしまえ、と思うかも知れない。
しかし、ここにはある問いが潜んでいる。
それは教義を砕くこと自体の良し悪しについての問いではなく、砕いた後に浮上する問いだ。
兄の言うように、弟は荷物を降ろすことができた。
たしかに身は軽くなった。
しかし、軽くなった身体は、浮ついてしまって地に足がつかず、行き先が不安定になるだろう。
弟はその後、どこかへ消えてしまった。
必要なのは、くだらない教義を砕くことではない。
むしろ、砕いた後でどんな関係を新たに構築するか、である。
砕いた後にどうするか、それがこの物語に潜んでいる問いである。
そう思った兄は、投壜通信をするように、弟にメッセージを送る。
インタビュー形式でドキュメンタリー風の動画を制作して放送する。
それが弟に届けばいいと祈って。
さて、楼氏の巧みなところは、物語をメタ構造的に作ることだ。
どういうことか。
それは、この物語のなかで描かれる投壜通信が、現実のこの『聖薄荷教徒』という名前のマンガに二重写しになっているということだ。
つまり、このマンガ自体が楼氏の投壜通信である、ということ。
楼氏が誰に向かってこのメッセージを送っているのかは、わたしには分からない。
もしかしたら過去の自分かも知れないし、特定の誰かかも知れないし、不特定の誰かかも知れない。
しかし、正しい宛先はどうでも良いのだ。
少なくとも、このメッセージはわたしに届いた。
あの頃に抱いた信念が砕かれた後に生きている今のわたしに。
何者にもなれないわたしに。
きっとドグマとは違う何かを、新しい何かを構築できるのではないか。
だからミントアイスでも食べながら、笑い話でもしよう、と。
次に、楼氏に会うときには、一緒にミントアイスでも齧ろう、そう思った。
ドグマの粉砕の後に、わたしに必要なのは、あの清涼感なのかもしれない。
おわり
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