感想文:ジョーカー2について
ジョーカー2を観た。ネタバレあります。
いわゆるエンタメ的な快楽はない。
エンタメの対概念として本作では「人生」というキーワードが使われている。
ジョーカーはエンタメではなく、人生なのだそうだ。
ここで人生と言われるのは、他人に求められることを上手くこなせず、盛大なカタルシスもなく、ただ終わるものだ。
ジョーカー1は、冴えない男、精神的に病んだ男、ウケないコメディアンであるアーサー・フレックが、ジョーカーという狂気の象徴に変身する物語であった。
その変身を下支えするのは、主演ホアキンの怪演と、それを執拗に捉え続けるカメラであった。
まるでジョーカーの実存を表現するかのようだった。
ジョーカー1がアーサーがジョーカーになる物語ならば、ジョーカー2はジョーカーがアーサーに戻る物語だと言える。
アーサーにはジョーカーという怪物は荷が重かった。
2度目の変身(元に戻る)もまた、主演ホアキンの怪演とカメラによって実現する。
つまりアーサーはジョーカーの実存たり得なかった。
わたしには最早、現実か虚構かという物語のもう一つの主軸はどうでも良い。
つまり、ジョーカーとは現実であり虚構なのだ。
ジョーカーに変身するのは誰でも良い。アーサーでなくて良いのだ。
ジョーカー2の最後で、アーサーを刺殺した男が、笑いながら自らの口を裂き、新たなジョーカーが誕生した。
ジョーカーとは、アーサーが生み出した虚構ではない。
ジョーカーはアーサーが独占するような狂気ではない。
ようは、ジョーカーの実存は匿名なのだ。
さらに言いかえれば、つまりはカードゲームだったのだ。
アーサーの手札にジョーカーが配られた、けれども結局アーサーは役を作らずにゲームを降りてしまった。
そして再び山札は切られ、別のプレイヤーの手札にジョーカーが配られるだろう、その繰り返しだ。
それを示すために、トッド・フィリップスは、ホアキンに、アーサーをジョーカーに変身させ、そしてジョーカーをアーサー戻させたのかもしれない。