エッセイ:読書録について
読書録の投稿を始めたのは2022年5月27日が最初だった。
2年経ち、2024年5月27日でちょうど100記事を投稿した。
キリが良いので、今後は投稿スタイルを変えることにする。
今までは、読んだ本すべてを読書録にして投稿していたが、これからは全部投稿するのはやめにして、気が向いたら書くことにする。
元々、読書は習慣になっていて、月に5冊は読んでいた。
ふと、インプットしたものを体内でかき混ぜてアウトプットしたらどうなるか、という実験的な感じで始めた気がする。
最初の記事は、アインシュタインの『物理学はいかに創られたか』だった。
そして、最後の(100記事目の)記事は、石牟礼道子の『苦海浄土』だ。
読書録では、新書、文庫、単行本をいろいろと読んで、受け取ったものを整理して書き出した。
科学の解説本や数学の本、哲学の本、SF小説、推理小説、純文学など、やや偏りはあるものの、文理問わず読んできた。
この2年間で、金原ひとみさんの文庫化されてた作品を全て読んだ。
金原ひとみさんは同時代を生きていて、長く作家活動をされている。
その金原ひとみさんが、どのように作品を書きつないでいるのか、知りたくなったのだ。
あるいは、書かれている文章の意味を知りたくなったのだ。
小説、評論、詩、その意味内容を。
文章を書くという営みはとても不思議な営みである。
言葉、というものは、文字であり、線であり、点である。
意味である前に、マテリアルとして形を持っている。
その物体的なカタチに、わたしたちは意味を上書きしている。
カタチを書くと、読み手はカタチと意味を受け取る。
意味というのは誤解の産物だ。
誤解というのは言い過ぎに思えるかも知れない、けれど実際にそうなのだ。
正解の反対が誤解である。
意味には正解というものがない。
したがって全ての意味は誤解である。
定番の意味、常識化された意味は、数ある誤解の中で、みんながこの誤解が正統であるということにしよう、としているに過ぎない。
ようは、意味は誤解である。
村上春樹さんは、「理解とは誤解の総体である」というようなことを書いている。
意味に正解はない、誤解だけがある。
意味を理解することは、誤解の総体を理解することである。
では、意味は誤解なのだから無価値だろうか。
おそらく無価値である。
わたしの読書録は、作品から受け取った意味を書きつけたものだった。
したがって、わたしの読書録は無価値である。
無価値なものが量産される。
無価値の量産。
しかし、わたしは突き動かされたのだ。
読んで、意味を(無価値な誤解を)受け取った、それを書き込んだ。
無価値の量産をせざるを得なかった。
突き動かされて書いたのだった。
この読書録は、わたしが突き動かされたこと、わたしの欲望(意味を受け取りたいという欲望)、わたしの欲動の記録なのである。
無価値への欲望、誤解への欲望。
わたしの読書録は、誤解への意志によって書かれた。
わたしは誤解したかったのだ。
きっとこれからも誤解するだろう。