ビジネス弁としての「展開」──その2
なぜかふと気が向いて、前に読んだジョゼフ・ヘンリック『文化がヒトを進化させた』(今西康子訳・白揚社)に手が伸びてパラパラめくっていたら、きのう書いたこととちょっと関係ありそうなところに鉛筆で線が引いてあった。
〈どんな社会規範のもとに生きている人間かということは、目で見てわかるものではない。そこで、自然選択によって利用されたのが、社会規範はたいてい方言、入れ墨のような識別可能な特徴とともに伝播するという事実だった〉
〈生後五〜六か月の乳児は、母親と同じアクセントの人のほうばかり見つめる。生後一〇か月になると、母親と同じアクセントの人のほうからおもちゃを受け取るようになる。また、幼稚園児は自分と同じ言語や方言を話す子を「友だち」に選ぶ傾向がある〉
〈(文化進化によって生まれた)この世界では、ある人の方言を聞けば、その人の選好、動機、信念などさまざまな側面を、ある程度自信をもって予測できたはずである。なぜなら、方言は、社会規範や信念や世界観と同じ経路を通って伝達されるからである〉
これはおもにエスニック・グループに関する話ではあるけれど、まあ、広く人間集団に共通する「心のクセ」みたいなものであろう。言葉遣いに違和感があると、自分とは何か違う規範にしたがって生きているのではないかという警戒感が生まれてしまうわけだ。
長い人類史の中では役に立つ「クセ」だったからこそ現在も淘汰されずに残っているのだろうが、一方でこれは偏見にもつながる。ちょっとした言葉遣いの違いを見咎めて警戒するのはよろしくない。まあまあ、おおむね意味が通じるならよいではないか、と思ったりもするのだった。それが「方言」であることは自覚してもらったほうがよろしいとは思いますけども。
しかし、じゃあ自分が「添付ファイルを○○様にもご展開いただけますようお願い申し上げます」などと真似するかといえば、もちろんそんなことはしない。お国言葉は相手への親しみを表現するためにおどけて真似することはあるけれど、ビジネス弁は使用した瞬間にそちらの規範が内面化されてしまいそうな恐怖感(?)がある。
それを恐れるのも私の中に何か偏見があるからなのかもしれないが、日頃から信頼している相手に「ああ、この人も〈展開〉をこんなふうに使うんだ」などとガッカリされるのはやはり避けたい。というわけで、「使うなとは言わんけど、俺は使わないよ」という当たり前すぎてじつにツマラナイ結論に達したのでした。
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それにしても、この「展開します」の使用法はいつどのように始まったのであろうか。もしかしたら、誰か強い影響力を持つ人物が言い始めて、みんなそれを真似するようになったのかもしれない。『文化がヒトを進化させた』には、こんな記述もあった。
〈ヒトは模倣という手段を利用して社会的関係を築いたり、ステータスの差を示したりするようになった。つまり、相手の動作や口調をまねるのは、「あなたと仲よくしたい。あなたはほんとにすばらしい」という意思表示でもあるのだ〉
これも、淘汰されずに生き残った「心のクセ」ではある。たとえば食用の野菜から毒を抜く手順など、昔の人たちはその意味や目的や因果関係などを知らないまま、先輩たちのやることをただそのまま模倣することで継承してきた。
〈先祖代々受け継がれてきたやり方を信じてそのまま従おうとしないと、家族が病気になったり早死にしたりする羽目になるのだ。この毒抜き処理に関しては、自分の頭で考えても良いことはない。直感的に判断すると誤った答えを出してしまう〉
だから、成功者のやることを素直に模倣する心の持ち主(そういう遺伝子)が淘汰されずに生き残ったというわけである。
だが一方で、そういう心的傾向は「過剰模倣」という現象も生むようだ。何らかの報酬を得るために箱を押したり引いたり叩いたりといった複雑な手順を踏む実験では、最初にモデルがやってみせる手順の中に〈報酬を得るのには明らかに不要な〉〈物理的な因果関係などどうていありえない〉手順も含まれていたが、被験者の多くはすべてそっくりそのまま模倣したらしい。こういう意地悪な心理学実験の話が私は好きだ。
ビジネス弁としての「展開」も、あんがい「過剰模倣」みたいなところから始まったのかもしれない。いずれにしろ、妙な言葉遣いがそういう形で広まることは一般的にはあり得るだろう。インフルエンサーのみなさんには、気をつけてもらいたいものである。
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