作品のリスペクトとは
基本的に創作家や表現者というのは(自身をも含む)特定の人物または大衆の思考に「影響する」「自らの模倣子を着床させる」ことに喜びを覚える人種だと思っている。言ってしまえばこれは生物の物理的な交配〜遺伝子存続の枠組みから外れた、人間による「思想・文化・価値観の存続」による快感だと思ってる。
人間の肉体は朽ちて物理的な交配は不可能になるけれども、例えば自分の思想を纏めた本や、言葉にならない心の模様を視覚化した絵画〜などといった「作品・表現物」は、後世にまで残る。完全とは言えないものの、作者がその作品に込めた模倣子は、本人が死んだ後も10・100年先の人間にそのカケラを植え付け、世代を超えて影響させることが出来る。
ただしこの「模倣子を残したい」といった欲は人によって随分な差異があり、「血反吐はくほど努力してでも有名になって、教科書に載るくらいの作品を歴史に刻みたい」と思う人もいれば、「まあ自分が死んだら後の世なんてあって無いようなもんだし、最低でも自分の可愛い息子に俺の生き方が伝わってれば良いか」という人もいる。
重要な前提だったので前置きが長くなった。
創作や表現手法による「リスペクト」について、これはつまり「作者が本家の表現を自分なりに読み取り、自分なりに1から模倣した物」だと思ってる。大事なのは”自分なりに”という点。
先ほど言った通り、創作者は自分の作品や表現が誰かに影響することを待ち望んでいる。ただしその結果を”100%正確に”観測するのは実に難しい。勿論SNSやコメント欄の感想はあるけど、例えば「素晴らしい」というただ一言の感想に対し「実際に全容を観たのか」「本当に内容を把握してくれたのか」といった証明は難しい。
ただしこの「リスペクト」をしてくれた人に関しては99%「作品を観ていた」ことが判る。その精度にも依るが、本家作品で織り成されている造形やその比率、時間やタイミングといった物は、リスペクターが何度も本家を緻密に鑑賞及び分析を重ねなければ再現出来ない。
リスペクト作品というのは、言わばリスペクターがとある一作品を五感で鑑賞し尽くした証。本家の創作者からすれば、自身が過去皿に乗せた料理(模倣子)を、皿が山のように重なるまで味わい尽くし、時間をかけて再現された品であることを実感出来るはずだ。「影響」を喜びとする人間にとって、これほどの快感はない。
このやり取りこそが「リスペクト」と形容される所以だと思ってる。
中身を見ずとも出来るコピー&ペーストとは確たる差があるはずだ。
また、「これは論文などの”引用”などと差異はあるのか」という話も聞くけれど、”凄く広義的に捉えれば”引用もまた”リスペクト”と形容出来ると思う。
論文は「言葉の扱いが上手い聡明な方々が、齟齬が生じないよう言葉の限りを尽くして仕上がった文章作品」だとも言える。ただし、それでも読み手の人間の思考は多様すぎる。草が青く見える人、太陽が黄色く見える人、地球が平面に見える人がいる。
極例を挙げてしまったけれど、要するに「引用元となる論文を全て読んで尚、その言説が正確に要約~紹介されているとは限らない」ということだ。論文を読み、自分なりに解釈をして、自分なりの結論を文章に残したとしたら、それもある種「とある作品のリスペクトを含む”自己表現”」だとも言える。
「リスペクト」という言葉が先行してしまい「尊敬や敬意はどこにあるんだ」という話をよく目にするけども、大事なのは「誰かが作品を咀嚼し、味わった」「そしてそれが少しづつ形を変えてでも、他文化へ広く、後世へ長く存続されていく」という事実にあると思う。
もしかしたら模倣子を残すことに頓着がない人にとっては刺さらない内容かもしれない。
少なくとも分かってほしいのが「作品の表現をリスペクトし模倣する人々は、単に享楽的に表現のコピペを行なっているわけではない。何か心に"熱い物"を宿し、脳と手を走らせている。」ということだ。
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