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Microphones in 2020

「Microphones in 2020」という名を冠した1曲44分という大曲の中で、Phil Elverumは現在と過去を彷徨している。Philは訥々と紡ぐ言葉によってThe Microphones/Mount Eerieの名義上の境界を取り払い、精神の内奥に分け入ることで人生の意味を明らかにしようとしている。現在の自分と過去の自分が相互に影響し合い新たな像を結ぶイメージは、ジャケット写真にも投影されているように思われる。ここで試みられるのは、過去から新たな意味を取り出すことで“現在へと至る地図”を書き出す途方もない作業である。

全ての衝撃の集積が加わって今の自分がある。僕は今もあの2枚を作った大きな感情と共に生きている。悲しみ、喪失、記憶等々、それに愛と驚きともね。(今回)違う名義を使うことで線引きをしようって意図はなかったよ。実際、それとは反対のことが狙いかも。境界なんてものは存在しないし、この音楽は全て同じ川の一部で、名義とかの線引きは幻想に過ぎないという。(TURN誌における、岡村詩乃によるインタビューより抜粋)

Mount Eerie名義で2017年に発表された『A Crow Looked At Me』では、最愛の妻を失ったPhilの喪失感が綴られた。そこで鳴らされる楽器はほぼクラシックギターのみで、Philの抱えた悲しみはサウンドの拡張を経ないまま剥き出しともいえる状態で吐露されていた。続く『Now Only(2018年)』では歪んだベース音が響く瞬間やバンド形式の楽曲など、弾き語りを離れる瞬間がいくつか見受けられるが、その歌詞の主題は死に対する洞察が主であった。2020年となった今、Microphonesの名義を復活させることの意義をPhilはInterview  Magazineへのインタビューで以下のように語っている。

死というものを超えて、同じような視点の転換を自身の経験にも当てはめたかった。それは僕の人生の中で、Microphonesをどう捉えているのか整理するということなのかもしれない。"このバンド名は何を意味しているのか?17歳から23歳までの私は何者だったのか?何が僕自身を作り上げたのか?その頃の世界はどんな感じだったのか?自分の価値観は何だったのか?それが今にどう引き継がれているのか?“

“Death Is Real(死は現実だ)”という歌い出しとともに禁欲的なまでに抑制されたサウンドで心情を吐露した『A Crow Looked At Me』の先の地平で、Philは「I keep on not dying, the sun keeps on rising(僕は死なずにやっている、太陽は変わらずに登ってくる)」と呟くように歌う。この曲の中で、繰り返し昇る太陽が“永遠”を象徴するものであるならば、人生や生命といった“刹那“は滝や川といった暗喩を通して語られる。

全ての物事の、ありのままの姿は、滝のようなもの、砕け散る底も、落ちて霧散する岩棚もなく、瓦礫と花々で溢れかえり、落下しきることのない、そんな滝の中で、僕らは泳ぎ、落ちていく、時には寄り添い、時には離れて。それは波打つ混沌そのもの。

このような描写は時系列がシャッフルされた曲の中で幾度も現れる。Philが東洋哲学の影響を受けていることはインタビュー等でも明らかになっているところである。もう一つ具体的な例を引用しておく。

何年も後になって、メイヘムの“Freesing Moon”を聴いた時、こんな歌詞が耳に飛び込んできた:「墓は再び光を放ち」「永遠が扉を開く」と。そして僕は口にする、「ずっと同じものなんてない、何かを知り得る人などいない」と。かつて僕が住んでいた家に別の誰かが住み、そのうちそれも壊されるか燃えてしまう、長きに渡る淀みに住みたい人などいるだろうか?僕は今、歳をとり、五秒前に感じたことも同じようには感じられない。

Philがその作品自体に通じているかは不明であるが、「人」と「すみか」というものの関係性に注目して永遠というものを疑う発想自体は鴨長明『方丈記』に酷似している。Philと長明の葛藤は深いレベルで共鳴しているように思われる。

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。

『方丈記』において、長明は自らが経験した天変地異を記し、無常の世の中において富や地位に執着することの虚しさを吐露する。『方丈記』は、(上記に引用した序文のみを読む学校教育の影響で)聖人としての長明が悟れない他者を批判しているような文脈で読解されることもあるテクストであるが、ここで行われているのは草庵に籠る長明による欲深き人間への断罪ではない。長明の他者への目線は筆が進むごとに自身の内面に向き、末尾における自己批判は鋭い刃のように研ぎ澄まされる。

しづかなる曉、このことわりを思ひつゞけて、みづから心に問ひていはく、世をのがれて山林にまじはるは、心ををさめて道を行はむがためなり。然るを汝が姿はひじりに似て、心はにごりにしめり。すみかは則ち淨名居士のあとをけがせりといへども、たもつ所はわづかに周梨槃特が行にだも及ばず。もしこれ貧賤の報のみづからなやますか、はた亦妄心のいたりてくるはせるか、その時こゝろ更に答ふることなし。たゝかたはらに舌根をやとひて不請の念佛、兩三返を申してやみぬ。時に建暦の二とせ、彌生の晦日比、桑門蓮胤、外山の庵にしてこれをしるす。「月かげは入る山の端もつらかりきたえぬひかりをみるよしもがな」。

思索の末、長明は、執着を捨て仏道を進むために草庵に籠もっている自分こそが草庵への執着を捨て切れない欲深き人間である、という自己矛盾に突き当たる。この執着はどこから来るのかという問いに、長明の心は答えることはない。長明にできることは、ただ自身の舌を使って、念仏を三度唱えることだけである。この箇所に悟れない自身に対する嘆きのみを見出すのは誤りであろう。長命は「方丈記」を書くことによって、念仏を唱えることによって、その後に『無名抄』や『発心集』を書くことによって、人生の意味への接近を試みるのである。『方丈記』の流布本の末尾には「月かげは入る山の端もつらかりきたえぬひかりをみるよしもがな」という源季広の和歌が引用されている。“傾いた月の光は、それを隠す山陰をもまた、恨めしく思わせる。絶えぬ光を見つづける、そんな方法は無いものか。“という意の歌がなぜ『方丈記』に引用されたのか、その経緯は分からないが、長明に対する共感の眼差しが認められることは確かであろう。人間が絶えぬ光を見ることは可能であるのか、古来問われ続けてきたその問いの答えは未だ分からない。「Microphones in 2020」の中で、Philはこの問いの答えに接近していく。

物事は滝の流れのように絶えず変化し続ける。永続性を備えた事物など存在しない。東洋の思想からの影響も窺えるPhil自身の思索は、魔術的な2コードの円環に象徴されている。冒頭から歌い出しだけでも8分弱続くこのコードの循環は、その場に立ち止まっているような感覚と何処かへ向かって漂い続けているような感覚を伴って、聴き手を不可思議な領域へと誘う。そしてその魔術的な円環は、13分ごろのドラムパートの挿入、16分ごろの(Philのシグネチャーともいえる)歪んだベース音の挿入やコーラスのオーバーダブによって次々と拡張されていく。特に21分以降のフィードバックノイズがピアノの音を伴いながら地鳴りのように我々を包み込む展開、“The things I survive return repeatedly
And I find again that I am a newborn every time.”という言葉の後に、2コードの円環が解かれる瞬間は本作のハイライトであろう。ここで男は、過去に向き合うことで新たな生を獲得する。すでに眼前にない事物、その連なりが男に新たな生命を吹き込んでいく。『Crow』連作では封じられていたサウンドの拡張が、自身の思索の深化を具現化するように見事に結実していく様は感動的である。この楽曲で、確かにPhilは自身の眼前に立ち塞がっていた死を超えて行こうとしている。

長明と同じように自身の内奥へと潜り込み、人生の意味に接近しようとしたPhilの44分間に亘る精神世界の彷徨は、この楽曲を(つまりは自分自身の回想自体を)とてつもない純度で結晶化させたようなラインで幕を閉じることになる。

いずれにせよ、僕が今まで歌ってきた歌はみな、同じことを歌っている:おおよそは、地面に立ち、考えを巡らすことについてだ。もしそこに詞が必要だとしたら、それはきっとこうなるだろう「Now Only(ただ今だけが)」そして「There's No End(終わることなく)」

滝のように流れ落ちていくことだけが、我々にとっての真実なのだとしたら。波打つ混沌の中で静かに消えてしまうことだけが、全ての生命が辿る定めなのだとしたら。しかし、歌を歌うことで、言葉を紡ぐことでその都度自分自身が“生まれ直す“ことができるのだとしたら。そしてその歌に触れた者たちの生命が、一瞬であろうと新たな光を放つのだとしたら。

僕は願う、喜びを持って全てにしみ渡るこの不条理さが、みんなの繊細な安定性を浸食しつつ、一瞬一瞬が新たに崩れ落ちる建物さということを認めながら、天井から落ちてくる水のように、部屋の中へとどっと溢れ出すことを。

『Microphones in 2020』は、“The Microphones”と“Mount Eerie”を、“現在“と“過去“を、“生“と“死“を脱構築する。そしてそれらの対立を超克した先で高らかに響いている生命の賛歌である。

僕はこの歌をやめたりしない。この歌は永遠に続いていく。

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