市民運動に大事なのは「楽しさ」ではなく、「意義を信じられているかどうか」だと思う。
どうすれば日本の市民運動が盛り上がるのか、悩みに悩んでいた。
日本の集会やデモを見渡せば学生・青年が少なく、30-50代の中年層がぽっかりと抜け落ちている。単純に同世代の運動家が少ないのは寂しい。そして、使い回しの言葉と自己紹介ばかりで内部への問題提起もない「予定調和」な各運動団体のスピーチ。集会を締める(※締まっていない)覇気のない全体コール。一本調子で前回から工夫をした痕跡の感じられないデモコール。
このどれもに、ずっと、ムシャクシャしていた。なぜもっと一回一回にエネルギーをかけないのか、なぜそんなところで満足して終わっているのか。1人だけで焦って、周囲との温度差にずっと困惑していた。
去年、「大統領弾劾」や「南北の平和統一」を訴える韓国の大きな集会に参加して、人の多さや熱気に圧倒された。追い討ちのように、日本の集会に圧倒的な物足りなさを感じるようになった。そこで運動を「楽しくしなきゃいけないんだ」と思った。
自分の運動のきっかけは中学生の時にテレビで見たSEALDsのデモだったので、本音を言えばあんな「カッコいい」ものを作りたいという思いがある。しかしながらここもセンスがものを言うので、これは自分にはどうやっても無理なジャンルだった。それで、自分はどちらかと言えば盛り上げ役のタイプだというのは理解していたので、デモではできるだけ自分が楽しそうに叫びまくるとか、スピーチに冗談を交えるとか、岸田の人形を作ってみるとか、「面白く」見えるようにできるところから工夫していった。
去年と今年、大きな原発反対集会に実行委から参加させてもらい、こういうふうに大きな集会が作られるのかと学ばせてもらった。ある程度自分の意見も受け入れていただき、実現にこぎつけた。デモで音楽を多めに流すとか、自分の中では工夫をしたつもりだった。
ただ、なんとなく虚しさは続いた。いまいち沿道にハマっている気がしない。自分も心の底から楽しんでいるわけではない、道化を演じているような気もしてくる。まだ面白さが足りないのか、じゃあ自分が芸人になればいいのか、カッコいい音楽家を呼んでくればいいのか。答えは出ず、ぐるぐると考え続けるだけだった。
そんな袋小路に追い詰められたところで、放浪の旅に出た。6月と8月とで、韓国に1ヶ月半滞在した。このまま行けば丸2ヶ月滞在することになりそうだ。仲間の運動家を伝って、教えてもらった集会へ参加した。色々見て回り、なんとなくわかったことがある。
大事なのは楽しさではない。
もちろん韓国で大きな集会に参加すれば、音響機材の豊かさや、大画面のスクリーンや、力強い司会っぷりや、与党の政治家を模した人形などの工夫の面白さで溢れている。ここは日本と大きな差がある部分だと思う。
ただ、小さい集会だとそうでもなかった。人形を持ってくるとか、スクリーンを用意するとか、そんなしんどいことをいちいちやっていられないのは同じだ。横断幕と簡易的なスピーカーを使って、クリアファイルにメッセージの書かれた紙を入れただけのプラカードを掲げる。日本ではこの程度でもやっていない運動はたくさんあるので、手抜きだと言うつもりはさらさらないが、大きな集会ばかりに目を取られて、小規模で地道にやっているものがどんな雰囲気かわかっていなかった。
その上で、大きく違うのは参加者が生き生きしていることだろう。自分の話すことに自信を持っていて、堂々と話している。他の参加者も、誰かのスピーチが終われば「ワーッ!」と歓声を上げて労わる。眩しい姿だった。実は韓国でも政治疲れは深刻な問題となっていて、沿道を歩く人に反応が少ないのは同じだった。
僕が参加した集会は緊張する南北関係について、韓国政府に挑発をやめて統一政策への変更を求めるものだった。現在の韓国では統一問題への関心が薄くなっている。ユンソンニョル大統領の悪政によって国民生活は疲弊し、与党政治家の不正腐敗が続き、怒りの声を上げるのに疲れが出ているようだ。さらに政権のプロパガンダ戦略によって、共和国への韓国国民の敵対感情を焚き付けるようにメディアが動くので、南北統一は今あまりウケのいいテーマではない。
しかし、そんな中でも無関心に怯えることなく、彼らは訴え続けている。毎週街頭に立ち続けている。それは南北分断を解決することの重要さを信じているからだ。運動の意義を自分たちが信じているからだ。だから特別な出し物や工夫がなくても、そばに立っているだけで僕は楽しかった。
結局これが答えなんだろうな、と思った。言うまでもなく集会の工夫は意味があるし、それで引き寄せられる人もたくさんいる。やって意味のない行為では決してない。ただ、そこでどれだけ闘っても、「他のエンタメ」との不毛な勝負をし続けることになるのだ。一気見してしまうNetflixの海外ドラマや、壮大な世界が広がるファンタジーゲームや、最高に気持ちのいい家での昼寝と闘い続けることになる。これはかなり難しい闘いだと思う。
だから運動家は、運動の意義でもって人々を惹きつけるしかないのだ。人々に何を言うか、何を訴えるのかこそが私たちの戦闘場なのだ。この地震大国に原発があることがどれだけ危なくて、自民党の裏金問題を放置することが日本の民主主義にとってどれだけまずくて、イスラエルによるガザの虐殺を止めるために1人から声を上げることにどれだけ意味があるのか。私たち自身が私たちのやることを信じて、私たちの言葉の誠実さを信じて、私たちの行動が変える未来を信じていられるか、それが一番大事なのだ。その「真実味」に心打たれた人間が、新たに仲間に加わっていく。派手なことをする必要はない、ただ一回一回の言葉を大事にしていくだけだ。
このことがわかって、ずっと視界を覆っていた薄靄が晴れたような気持ちよさを感じた。見え方ばかり気にして小手先の工夫で失敗したらただの「日和見」となって自己嫌悪を燻らせるだけだが、自分の行動を心から信じてやったのなら恥じることは何もない。
そういう意味でも、日本の運動家は自分たちのことをコンプレックスに感じてしまっているのかもしれない。よく集会などで「こんなこと本当はやりたくないけど言わなくちゃいけないからしてるんです!」という言葉を聞く。そんな言葉を放つ人間の後に、誰が続くというのだろう。昔憧れたSEALDsも、自分たちのことを普通の大学生だと見せたがった。
みんな怯えているのだ。政治に無関心で、我々に冷ややかな目を向けてくる「賢い市民」に。日本の運動家が、胸を張れるようにしたい。「運動家」という生き様が最も尊いのだとする社会にしたい。私利私欲ではなく、万人のための闘争に身を捧げる生き様こそが。本気でそう思う。運動家を恥とする世の中こそが、歴史の恥なのだ。…そうやって、他の人も自信を持って言い切られるようにしたい。