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ココロとカラダを快適にするデッコーロウォモの素敵なドレスシャツ

STORY Vol.17 – 西木紳悟 氏(プロアーティスティックローラースケーター/日本代表監督)

decollouomo(デッコーロウォモ)の独自開発されたoverture(オーバーチュア)素材は、生地の風合いがとても素敵で、着心地が抜群に良いですね。オンラインショップのコラムを拝見しましたが、糸から拘ってつくるとこんなことになるのかと感動しました。このエベーヌグレーという新色は、他にはない綺麗なカラーなのでお気に入りです。

アルティメイトピマ®という最高級のオーガニックコットンでつくられたこの素材は、柔らかくて軽く、伸縮性が高いので、とにかく着心地が最高です。一般的な衣服を着用してスケートをすると、汗で生地が肌に貼り付いてしまい、身体を動かすときにどうしても引っかかってしまいます。そういう衣服だと動きにくくて、競技で着用することは難しいんです。試しにoverture(オーバーチュア)のシャツを着用して滑ってみたところ、生地の引っ掛かりが一切なかったのがとても良かったですね。汗はかいているのですが常に生地がサラっとしていましたし、どれだけ動いても快適な状態でスケートをすることが出来ました。

アーティスティックローラースケートの競技大会でコーチングをする時、フランクな服装はNGです。スーツスタイルか、日本チームのジャージスタイルのどちらか。私はジャージがあまり好きではないので、競技大会の時にはdecollouomo(デッコーロウォモ)のシャツも持っていき、使わせてもらっています。overture(オーバーチュア)のシャツは、着用していて楽なのに見た目はお洒落なので、きちんとした装いの時には重宝しています。

スポーツ苦手な少年がハマったアーティスティックローラースケート

私の兄がスポーツ好きだったということもあって、幼少期は兄に連れられて色々な習い事をすることが多かったですね。兄は割となんでもできるタイプだったのですが、私は覚えが悪かったり、なかなか上達できなかったりして、自分の中ではスポーツが得意ではない方だと感じていました。

小学生の頃、インラインスケートというものが流行っていて、家の前や近所で滑って遊んでいました。しかし、環境的に危ないと近所の方から注意を受けることが多かったんです。こんなに楽しいものがどこかで滑れたらいいなと調べていた時に、「徳島コンドーローラークラブ」というところを見つけて、小学3年生の冬休みに体験教室へ参加したのがアーティスティックローラースケートと出会ったきっかけでした。

その体験教室の時に、先生が「君は将来すごい選手になる」みたいな感じですごく褒めてくれて。今思えば、みんなに言っていたと思うんですけどね。でも、スポーツで褒められたことがなかった私にとっては、それがとても嬉しくて。初めは趣味コースで1ヶ月ほど通っていましたが、どんどんアーティスティックローラースケートの楽しさにハマっていって、週に通う回数を増やしていきました。

15歳で全日本チャンピオン、18歳でアジアチャンピオンへ

アーティスティックローラースケートには階級があって1~10級まで分かれているんですけど、階級によって出場できる大会のクラスが異なります。それぞれの級に定められている技があって、昇級するには定期的に行われるテストでその技をクリアする必要があります。一番上の10級になると全国大会、世界大会に出場できる権限が与えられます。クラブには上手い子が沢山いたので、まずは、その子たちとライバルというか、その子たちに近づけるように頑張って徐々に階級を上げていきました。

私が初めて全日本チャンピオンになったのは15歳のとき。1番上の10級の階級になって初めて「全日本ローラースケートフィギュア選手権大会」に出場したときでした。出場者の中には大学生もいたので期待していなかったんですけど、運良く1位になることができました。それから毎年連覇していくことになるのですが、だんだん同じレベルで勝負してくれる相手がいなくなり、「アジアローラースポーツ選手権」や「世界アーティスティック選手権大会」に出場しないと試合ができない状況になってしまいました。その頃から国外の方に目を向けるようになり、日本を拠点にコーチと練習をして、国外の大会に出場するというスタイルにシフトしていきました。

今年も中国杭州で行われた「アジア競技大会」というアジアのオリンピックがあるんですけど、大学最後の年にアーティスティックローラースケートが追加種目になったことにより、初めてメジャーな国際大会に出場しました。そこで1位となりアジアチャンピオンになった時は、大きな反響をいただきましたね。

熱意と根性で切り拓いた世界への道

そうして順調にキャリアを積み重ねていたのですが、突然コーチが体調を崩されてしまい、コーチングができない状況になってしまいました。それからは、コーチがいない中でやみくもに練習していたこともあって、もうアーティスティックローラースケートを諦めて大学卒業後は就職をするか、競技を続けるか、すごく悩みましたね。 大学は徳島文理大学の人間生活学部児童学科で学んでいて、小学校の教員免許、幼稚園教諭と保育士の免許をとっていたので、大学卒業後、保育所に勤めたことがあるんです。世間体のこともあったので就職を選んで働いていましたが、やっぱり、競技を続けたいと強く思うようになって、結局仕事を辞めて競技を再開しました。

仕事も辞めちゃったし、この際、命懸けでアーティスティックローラースケートに打ち込もうということで、イタリアへ単身渡りました。イタリアは世界の中でトップレベル。日本は弱小なので、この機会に世界一の技術を学ぼうと思い立って覚悟を決めました。

最初は、SNSで知り合った日本人の方にホームステイさせてもらいながら、言葉も通じない中、クラブをまわるところから始めました。3ヶ月が経った頃にとても気に入った先生が見つかったのですが、その先生は世界チャンピオンを何人も育てている有名な方でトップ選手しか見てくれない。あと、私がローラースポーツの国内競技連盟であるワールドスケートジャパンから公式に来たのではなく、個人で来ていたので信用もなくて。多分、「何かやばい日本人が来たぞ」みたいに思われていたんでしょうね。コーチになってほしいと何度も頼みましたが、断られてしまいました。
アーティスティックローラースケートを続けたい、上手くなりたいという気持ちが強かった私は、その先生がイタリア国内の色々な場所をまわってレッスンをしていることを聞きつけて、ストーカーのようについてまわってレッスンに参加していたんです。そうして2ヶ月がたった頃、上達が見られたことと、しつこく粘る姿勢に根性があるなと認めてくれたみたいで、「わかった、次から私が見る。」とコーチになってくれる快諾を得ることが出来ました。

それからは、イタリア北部にあるベルガモという都市のロベレという地区を拠点に、二人三脚で練習に打ち込みました。本当図々しい話、私のレベルではみてもらえないようなトップキャリアのある先生なんです。当時の私は、アジア競技大会で優勝してアジアチャンピオンになって、世界ランクは20位ぐらい。先生はそんな私を徹底的に鍛えてくれたり、スポンサーをつけてくれたり、交通費を自ら負担までして育ててくれました。気づいたら6年間もお世話になり、もう今ではイタリアのお母さんみたいな関係です。

世界弱小が大技トリプルアクセルで世界ランク7位を獲得

私が「世界アーティスティック選手権大会」に初めて出場したのは、ジュニアクラスで17歳の頃。その時は世界大会の場に自分が参加していることに興奮してしまい、テンションが上がり過ぎて全然できませんでした。

初めて出場した時は観客から全然応援されなかったんですけど、 私自身が試合を楽しんでいたり、観客に表現を見せたいという想いが強かったので、その気持ちが伝わったのか徐々にファンになってくれる人が増えていきました。世界大会は国同士の競い合いなので観客は自身の国を応援するのですが、世界弱小のアジアから出てきた日本人ということで、私の時だけ観客の皆さんがフラットに応援してくれていました。

イタリア修行中の22歳、これで選手引退と決めて最後に挑んだ世界アーティスティック選手権大会では、世界で2人目の成功者となった大技「トリプルアクセル」を決めて、世界ランク7位を獲得しました。あの時は、観客の皆さんもテンション爆上がり。大歓声の中、もう思い残すことはないなと感極まってしまったことを憶えています。

競技者のセカンドキャリアをつくりたい

引退後はスケートと関わる仕事をしたいと思い、フリーランスのインストラクターとして働いています。東京ドームローラースケートアリーナをはじめ、色々な場所でインストラクターをさせていただいています。生徒は子供から大人まで、様々なタイプの方がいらっしゃいます。ただローラースケートを楽しみたいという方からアーティスティックローラースケートの競技をしている方まで。 芸能を目指している方や、舞台や某テーマパークでスケートが使われているので練習したいという方もいらっしゃいます。競技以外でも、スケートの可能性を探ってセカンドキャリアにつながる新しいことを築いていけたらいいなと思って活動しています。

私も引退した後に困ったことが、競技を続けてきてもセカンドキャリアに活かすことが全然できないということ。それが理由で、競技者の皆さんは高校や大学卒業のタイミングで競技を辞めて違う道に進むしかないのです。私がもっと頑張って、スケートに関わってもらえる人を増やし、最終的には競技者の皆さんのセカンドキャリアの場を増やしていけたらと思っています。

私たちアーティスティック委員会が所属しているのは一般財団法人ワールドスケートジャパン(旧:日本ローラースケート連盟、日本ローラースポーツ連盟)です。ワールドスケートジャパンは、東京オリンピックで追加種目となったスケートボードをはじめ、私たちアーティスティックローラスケート、スピードスケート、インラインホッケー、リンクホッケー、ローラーフリースタイル、ローラーダービー、インラインアルペンなどローラースポーツの国内競技連盟です。

スケートボードがオリンピックの追加種目になったこともあって、大会を開催するにあたってスポンサーが入るようになったり、 国や地方公共団体から助成金が支給されたりするようになってきました。競技の発展と普及という点では、以前と比べて少しずつ動き出しているのかなと思います。あとは、環境を整備して選手を増やしていき、ローラースケートというものやアーティスティックローラースケートという競技を広げていきたいですね。

好きなものに出会えることは人生で1番幸せなこと

選手を引退してコーチとして教える立場になってから約7年が経ちますが、教え子たちから元気をもらうことが多いですね。選手の時より緊張することが多いですが、育ててきた生徒が活躍していく姿を見ることは達成感と喜びしかありません。いつも生徒たちから感動をいただいています。人に教えることが向いているのかは分かりませんが、本当に良い仕事をやらせてもらっていると思っています。やりたいことをやるって大変なことも多いですが、やっぱり良いですね。

私は、今まで何度も人生の選択に迷うことがありました。大抵の選手が大学卒業までに辞めてしまう中、いつまでスケートを続けるんだっていうお声も一部であったので、世間体を気にしてスケート以外の安定する仕事に就いた方が良いのか、迷ったことが何度もありました。生徒たちもこの先、スケートを続けるべきか、諦めて別の道を進むべきか悩む時があると思います。その時は、本当に自分のやりたいことに突き進んでいくことを勧めます。

好きなひと・好きなもの・好きなことに出会えることは、私の人生観の中で1番幸せなこと。それを大切にしてほしいと思います。人生の選択がきた時は、自分の気持ちに正直に、自分のことを信じて選択してほしい。迷った時に、周りの意見や世間体を気にしたり、自分の意思とは違う方を選んでしまうと、後悔をすることが多いと思います。

自分が決めたことは絶対に後悔しないし、ダメだったらその時に辞めればよいのですから。たとえ失敗したとしても大抵のことは何とかなります。周りの方々の意見も大切ですが、決めるのは自分。好きなことを突き詰めてほしいなと思います。


西木 紳悟
・アーティスティックローラースケーティング 日本代表監督/コーチ
・プロアーティスティックローラースケーター
・東京ドームシティローラースケートアリーナ インストラクター
・RISPORT SKATES オフィシャルスケーター
・ローラースケート、インラインスケート インストラクター

<経歴>
・ワールドゲームズ 世界5位(2009)
・世界アーティスティック選手権 世界7位(2005-2010)
・アジア競技大会 金メダル(2010)
・アジアローラースポーツ選手権フリースケーティング種目 優勝2回(2006、2010)
・全日本ローラースケートフィギュア選手権大会 優勝14連覇(2003-2016)
・徳島文理大学より体育功労賞を受賞(2011)
・アーティスティックローラースケーティング日本代表監督/コーチ就任

<所属>
・一般財団法人ワールドスケートジャパン
 https://worldskatejapan.or.jp/
・徳島ローラースポーツ連盟
 https://syougai.tokushima-ec.ed.jp/manabihiroba/srch_circle/1537.html
・徳島コンドーローラークラブ
 https://kondo-club.jp/index.html
・東京ドームシティローラースケートアリーナ
 https://www.tokyo-dome.co.jp/roller/
・RISPORT SKATES
 https://www.risport.com/ja/

https://decollouomo.com/apps/note/story-vol-17-shingonishiki/

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