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釣り人語源考 勝つ料理おかわり

「かど」と呼ばれる魚が2種類いる。
「ニシン」の地方名である「かど」は青森県・秋田県・山形県の山間部・福島県会津地方などで残る。
実はニシンの卵巣である「カズノコ(数の子)」とは、「かどの子」が訛って「かづ(数)の子」と置き換わったものというのが通説とされている。

ニシンはニシン目ニシン科ニシン属の食用魚で、かつて北海道で加工用として非常に大量な漁獲量があったが、現在ではニシンは激減したまま鮮魚用の漁獲だけとなっていて、加工用には「タイセイヨウニシン」が輸入されている。
ニシンの語源は、北海道で加工品原料として用いられた時の特徴にもとづく。
水揚げされたニシンは数日ほど保管する。すると身が柔らかくカズノコが固くなり扱いやすくなる。
指袋をはめた手でニシンの腹を裂き、内臓・白子・カズノコを取り分け、腹が割れたニシンは縄で結束し、棒に吊るされ干される。
2日ほどで生乾きとなると小型の刃物でまず尾から頭へ切り込み、身を開く。更に2週間ほど乾燥させると背骨が抜けやすくなり、背骨を引き抜くと身が左右に分離する。
ニシン1尾から干物が2つ出来るので、「ニ身(にしん)」と呼ばれるようになったという訳だ。
ニシンの干物は近畿などで消費され、特に京都では「にしんそば」や「おばんざい」で有名だ。

ニシン

ニシンは元々、富山湾付近で漁が始まったものと思われる。
産卵は湾内の浅い海岸付近に生える海藻に集団で行う性質があり、外洋を回遊している集団は産まれた湾へ戻って産卵する。このためいったん特定地域の集団数が減ってしまうと、他の地域の湾を母体とするニシン群が侵入しにくいために回復が難しい。
膨大な集団数を形成するニシンであるが、それは大型魚やサメ類の捕食を見越した生き残り戦術であるため、親魚の減少は深刻な集団壊滅の原因となる。
1890年頃から1917年頃まで、富山から秋田沿岸が漁場であったが、漁場の壊滅と共に1920年には青森沖から北海道南部に北上し、1923年には青森沖でも不漁となって本州日本海側のニシンは壊滅した。
1910年から始まった北海道の日本海側沿岸部の漁は、大正時代に100万トン近くの漁獲があり最盛期を迎えるが1953年から減少し1955年に5万トンまで激減して加工用ニシン漁は消滅したのだった。

ニシンの干物「みがきにしん」

東北地方の日本海側や太平洋側、青森や北海道南部の太平洋側で多く漁獲がある「ネズミザメ」は「カドザメ」とも呼ばれる。
ニシンを多く食うサメという意味だ。江戸時代の文献に残っている。
『和漢三才図会』(1712年 寺島良安)に「俗に 爾之牟にしん と云ふ。或は 加登かど と云ふ。」と記述がある。
ニシンは元々「かど」と呼ばれていた。
福島県会津地方の郷土料理で「かどの山椒漬け」「みそ煮」「田楽」などが残っている。
会津地方は保存食としてニシンの干物である「身欠きにしん」をたくさん消費している地域で、「会津でニシンの相場が決まる」と言われるほどだ。会津がニシン文化の中心地だろう。そこで「かど」と呼ばれていたのだ。
「かど」「かづ」が古い名称だとして、その語源は何だろう。

会津の「かどの山椒漬け」

もう一つの「かど」は、三重県の鈴鹿地方でサンマのことを「かど」と呼んでいる。
サンマの尾を目に刺して輪になった状態で藁で焼いたものを「かど焼き」と言って、生ではサンマと呼んだりする。
元々、サンマ漁の起源は紀州であるとされる。
そこでは「さいら」と呼ばれ、大阪京都など近畿圏へ干した加工品にして出荷されていた。
本来関西では「さいら」がメジャーな名称であったので、そのためサンマの学名はコロラビス・サイラだ。
「さいら」はおそらく「さひ・ら」が語源で、「小刀のような・大群の魚」という意味だろう。
「さいら」が京都では「さいれ・さえら・さよら」などに訛ってしまい、ぐるっと回って岐阜県や愛知県で「さより」となってしまったようだ。…これは遺憾!
それに対し房総半島など関東では「さんま」と命名され、江戸時代には徐々に漁獲量を伸ばし底辺層の人々の魚から大衆魚へと変貌していった。
「さんま」の語源はおそらく「狭真魚さまな」の関東訛りだろう。

関東は「サンマ」

前述した時代背景のため、近代まで大阪などでは「関東で獲れる生魚は”さんま”。しかし三重や和歌山で獲れる干し物や焼き物を”さいら”と区別していた」と書物などに残っている。
鈴鹿地方や名張、伊賀などの三重県山間部、また奈良県山間部の一部や岐阜県山間部、長野県のごく一部では、この「さいらの干物」が伝統的な保存食の魚として流通していた。これを特別に「かど」と呼んでいた。
真冬に三重県伊勢地方沖合で獲れるサンマは適度に脂が抜けていて「丸干し」に適している。
かなりカチカチに干し上げた「かど」は旨味が凝縮していてメチャクチャ美味いと言われる!
この「かど」の調理法は、炙ってから木槌で叩いてほぐし、炊いた米に野菜と混ぜた「混ぜご飯」が一番のごちそうだったと伝わっている。

伊勢で干される「さいら」は「かど」と呼ぶ

米が貴重であった時代、干した魚を塩気と旨味のもととして多くの野菜や山菜などをご飯に混ぜて量を増やしつつ、これ自体が総菜でもある料理法を「かて増やし」「かてめし」「かどめし」と呼んでいた。
てる」とはご飯に野菜などを混ぜることを表す言葉で、「かて」の由来である。
副菜のことを「お数」と言うが、この女房言葉の語源も「かて」だという説がある。

『釣り人語源考 勝つ料理』で、野生種クリ「シバグリ」や、固いカジメやソバを美味しく食べるため、炙ってから叩いてほぐしたり細かく粉砕してネバネバにする調理を「つ」というと解説した。
かて」「かて」の語源も「つ」と同じだ。
おそらく「かつ・かち・かて・かど・かづ」とは、そのままでは食べづらい食材を「炙る・叩く・ほぐす・砕く」ことで美味しく食べる行為の事だ。
カチカチに干し上げた「かつお」「かど」を木槌や小杵でトントン叩く台所の音。
山間部の厳しくも工夫があふれた生活が偲ばれる。

干しサンマを混ぜ込んだ「かどめし」

カツオの語源を調べると、「古事記にカツオが登場する」と言っているサイトがしばしば見つかるが、あれは魚類のカツオではなく、古代日本の建築用語の「鰹木かつおぎ」の事だ。
『古事記』の雄略天皇の条に、天皇の家を真似て鰹木(堅魚かつお)を上げて舎屋を造った村長の家を見た雄略天皇が激怒し、その家を燃やしたという説話がある。
鰹木とは、現代では飛鳥時代に創建された神社の社殿に残っている。社殿の屋根の上に、棟と直角になるよう何本も平行して並べた部材で、ほとんど飾りとしての機能である。
しかしおそらく、古代の茅葺屋根において屋根の頂上まで茅を葺き終わると杉板で蓋をし、その杉板を押さえつけるための機能を持った木材だろう。それがやがて権威を示す象徴となった歴史があったのだ。
古墳時代には既に家形埴輪に鰹木があるので、この時代では天皇家だけが鰹木を取り付けることが許されていたという古事記の記述が確からしいと裏付けられる。

鰹木

しかし何故、茅葺屋根の頂上に置く木材を「かつお」という魚と同じ名前としたのだろう。実に面白いのだがかなり謎だ。
定説では「かつお節に形が似ているから」と言われるが、果たしてそうだろうか。
集落の長の立派な家の上に、末永く繁栄を祝うために置かれた「縁起の良い」木材とはいったい何だ。
カツオの語源を調べていくうちに身に付いた、「かつ」に込められた古代日本人の心情を理解できる読者さまなら、きっと既に分かって頂けると思う。鰹木の正体は「きね」であろう。
干した魚や硬い海藻を柔らかく砕いたり、そば粉や米粉にお湯を入れた後よく混ぜるための「料理用小槌」を「かつおぎ」と呼んだのではないか。

難儀な食材を砕き分かち、実に美味く滋味深いご馳走に変化させる「勝利の木」。
「勝つ木」は王家の宮殿に相応しい、祝いの木にピッタリだ。

「鰹木が乗った家形埴輪」



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