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釣り人語源考 サケ

魚の名前は、「その魚をズバリと表す特徴的な性質から付けられる」と常々思っている。そして昔の人ほど魚の事をよく観察し、よく性質を知っているとも思っている。

魚の生態をよく知らない現代の学者たちが、現代語の発音や今の漢字の音や当て字を見ただけで提唱した説は、全く魚の生態やら当時の人々の慣習を考慮していない、いわゆる”俗説”である。

時代を遡り、より命名された時代に近づけば、より一層語源の痕跡が残されているはずだ。

時代が遠く古い書物に書かれた由来ならば、現代ではすっかり消え去ってしまった更に古い時代の記憶が残され、正しく語源を伝えているだろう。

さてさてサケ・シャケの語源は昔より多くの学者たちが文献を残し、諸説多しとなっている。

このサケの語源の各説を、現代から過去にさかのぼって検証してみよう。

『日本国語大辞典』(初版1972年 小学館)に載っている、鮭の由来を記した書物を、年代の古い順にざっと見てみると、

『名語記』(1268年 経尊 鎌倉時代の語源辞書)「稚魚のときから全長一尺に達するまで、胸腹が裂けているところからサケ(裂)の義。また肉の赤色が酒に酔ったようであるところからサカケ(酒気)の反。」

『かたこと』(1650年 安原貞室 江戸初期の俳諧教養語学書)「此魚、子を生まんとて、腹のサケはべる、とやらむと云へり。(産卵の際、腹がサケるからか)」

『和句解』(1662年 松永貞徳 江戸前期の語学語源書)「また海から川へサカサマにのぼるところからか。」

『日本釈名』(1700年 貝原益軒 江戸中期の語源辞典)、『滑稽雑談所引和訓義解』、『和訓栞』(1887年 谷川士清 江戸後期の国語辞書)「さけ 鮏の字を讀むは、云々、裂けの義。其肉片々裂けやすしと云へり。(肉が裂けやすいところから)」

『牛馬問』(1756年 新井白蛾 江戸中期の随筆 人からよく尋ねられる物事を記す)「肉に筋があってはなれやすいところから肉裂の略か。」

『言元梯』(1830年 大石千引)「肉の色からアケ(朱)の転。」

『日本語原学』(1932年 林甕臣)「セケ(瀬蹴)の義。」

『大言海』(1933年 大槻文彦)「すけ(名)【鮭】古ヘ、鮭<サケ>ノ、大イナル稱。「常陸国風土記、久慈郡、助川駅、「昔、號遇鹿、云云、至国宰久米大夫之時、為河取鮏、改名助川」註「俗語、謂鮏祖、為須介」(鮏祖ハ、鮭ノ親<オヤ>ノ義ニテ、鮭ノ大イナルモノヲ云ウト云ウ)」

『東方言語史叢考』(1927年 新村出)「夏の食物の意のアイヌ語サクイベからか。」

『日本古語大辞典』(1929年 松岡静雄)「スケと同語。スケは夷語か。」

『世界言語概説』・下巻 (1955年 金田一京助)「アイヌ語シャケンベ(夏食)が日本語に入ったもの。」

『広辞苑』(1955年 新村出)「アイヌ語サクイベ(夏の食べ物)からとも、サットカム(乾魚)からともいう。」

では時代が新しい新村出と金田一京介のアイヌ語源説を検証してみよう。

新村が主張する「サクイベ(夏の食べ物)」とは、本人が言う通り「マス(鱒)」の事である。

しかし発音に関して、アイヌ語で「食べ物」そして「魚」を意味する「イペ・イベ(ipe)」と「夏」を意味する「サㇰ(sak)」を合成して「夏の魚=マス(鱒)」を意味する(sakipe)は、正しくは「サキペ・サキベ」と発音する。サクイベという発音ではない。

ついでに「サットカム」は「sat(乾いた)」と「kam(肉)」の合成なので「satkam」は「サッカム」が正しい。

新村が間違えた原因を推察すると、彼の著作の文に「『蝦夷方言藻汐草』(1792年 上原熊次郎)には〈鱒のことをシャケンベ〉とある。またバチェラーの辞典『アイヌ・英・和辞典』(1889年)には〈サクイベと綴り春または夏の鮭〉と解いてある。」と記述があり、おそらくバチェラー辞書の記述間違いを自説に都合よく「サクイベ=シャケンベ=鱒=鮭」→「シャケンベ=鮭」としたのだろう。金田一は新村の説をそのまま採用したと思う。

普通に考えるとバチェラーの日本語訳は間違いだと気付く。「春または夏の鮭」とあるのは、「spring salmon マスノスケ(キングサーモン)」「summer salmon サクラマス」の事だろう。英語圏では日本と違って、降海型をsalmon、陸封型をtroutと呼んでいるからだ。

鮭を意味するアイヌ語は「秋(chuk)」の「魚(ipe)」で「チュキぺ」、又は「真の魚」を意味する「shipeシペ」や「神の魚」を意味する「kamuy-chepカムイチェプ」だ。

マスを意味するアイヌ語をなぜサケの語源としたのかについては、金田一は『アイヌ語と国語』(1933年)で「鮭と似ていて、外国などでも縷々一緒にされる鱒は、江戸でも区別せずに鮭と一様にシャケと呼んでいた。」と説明している。

しかしこの説明はかなり無理があると思う。『出雲風土記』(733年)出雲郡出雲大川(斐伊川)の記事に「則有年魚・鮭・麻須・伊具比・魴鱧等之類、潭湍雙泳」(あゆ・さけ・ます・いぐい(うぐい)・むなぎ(うなぎ)などの類があり、渕瀬に並び泳ぐ)とあって、明らかにサケとマスを区別している。まあ釣り人であったらシロザケとサクラマスは絶対に間違えない。

しかしながら金田一は『アイヌから来た言葉』(1956年)で「8月の末から、もう早い鮭が上がって来て鱒といっしょに網にかかる。これがやはり夏食〈サキペ〉と呼ばれる。」と自説を変えて、アイヌがサケとマスの区別をしていないと主張する。

本当にそうなのか検証すると、『地名アイヌ語小辞典』(1956年 知里真志保)には「マスは普通は ichan-iw 「イチャニゥ」(ホリを掘る者。ホリは産卵場のこと)と呼ばれる。しかし秋口になってサケが川をのぼりはじめると、「ホリを掘る者」とマスを呼ぶのはサケに対してはばかりがあるので、マスを sak-ipe「サキペ」(夏・魚)、サケを chuk-ipe「チュキペ」(秋・魚)と呼びます。」と、神聖なサケに憚り名前を変えてまで、サケとマスを完全に「別の魚」と認識していたと分かる。

バチェラーをはじめ、この時代の研究者たちは「アイヌは先住民族」という認識であったので、「日本語の一部はアイヌ語由来」と考えていたので仕方がないが、現代の研究によればアイヌ語は「孤立言語」で、隣接する日本語・ウィルタ語・ニヴフ語や、大陸のアルタイ語族・古アジア諸語・朝鮮語のいずれも系統関連が無い事が分かっている。

しかしアイヌと和人は貿易や文化交流が盛んであったので、「和人が知っててアイヌは知らない」とか「アイヌに有るが和人は知らない」のような場合、「借用語」が作られる。「icen 銭」や「rakko ラッコ」などだ。

民俗学の柳田國男の弟で、海軍兵学校を首席で卒業し海軍大佐まで昇進、退役後に言語学や民俗学を研究し始め、膨大な著作を残し58歳の若さで没した天才、松岡静雄。彼が常陸国風土記などを研究し日本古語大辞典を著作したとき「サケはスケと同語であり、スケはアイヌ語かもしれない。」としたのは、当時では最新の研究の結果だったかもしれない。

現在では北海道では縄文時代の後「続縄文時代」が続き、本州文化の影響を受けた5世紀から7世紀(古墳時代)が転換期となって7世紀から13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代)に「擦文文化」が栄えた「擦文時代」という時代区分があり、その後オホーツク文化やトビニタイ文化と融合して「アイヌ文化」が13世紀ごろから現在まで続いているとされる。

『常陸国風土記』(721年)が出来た奈良時代初期に「サケの親をスケと云う」と記述があって久慈川流域でサケが獲れたと書いてあるので、当時和人の住む本州と擦文文化人の住む北海道の両方ともサケを獲っていたわけなので「サケ」が借用語である可能性はとても低い。

さて常陸国風土記の「スケとはサケの親のこと」が本当だとすると、秋に遡上する大きな親ザケが「スケ」、卵から孵化した稚魚や少し大きくなった若魚、海でときどき捕獲される鮭児などが当時「サケ」という事になる。

秋に大きな親魚が大群を成して、急瀬や小滝を何度も駆け上がりする様をテレビなどでよく見るわけだが、あの激しくさかのぼる様子から「瀬を蹴る」というのはなかなか的を得ている表現ではないか。『日本語原学』の「スケ=瀬蹴」説はかなり面白い。

ちなみに東北地方に「大介小介伝説」がある。特別な日に川の漁師は仕事を休むのだが、それは巨大な鮭の夫婦である大介小介が川を遡る時、「鮭の大介小介、今登る」と大声をあげ、その声を聞いた人間は三日後に死ぬ、と云われているからだ。

また律令において常陸国の様な大国は、天皇の子供のうち親王が形式的に治める形である。実際の統治は"介"という役人がする訳だが、時代と共に長大な権力を持つようになってきて、〇〇介というと「立派だ」とか「大きい」という意味合いが派生して、名前にも用いられる様になった。大介や大祐や大輔などだ。単純に「助」や「介」の”立派な・大きな”という派生的な意味をもってきて、サケの親魚を命名したかもしれない。

北海道のオホーツク海側で稀に獲れるキングサーモンを「マスノスケ」と和名が付けられている。デカい鱒という事だ。鮭の親を"サケノスケ"と呼んでいたのかもだ。

ところで江戸時代くらいの近代になってから、「シャケ」という言葉が出てきた。

ある説によると江戸の人は"サ"が言えず"シャ"という発音なのでサケがシャケとなったとある。しかし九州でもシャケというのでアテにならない。そもそも「江戸っ子訛り」とは「シ」と「ヒ」が入れ替わる事例をいうので、「サ」→「シャ」は江戸っ子訛りだという説は間違いだ。

他に「加工したサケをシャケと呼ぶ」説がある。確かに「荒巻ジャケ」や「塩ジャケ」という。なるほど。食用になる親魚のスケがシャケの由来かも知れない。

江戸時代になるとサケとスケの違いが分からなくなって、音が近い為に"スケ"が訛って"シャケ"になり、スケという言葉が無くなっていったのではないだろうか。

さて「サケ」の語源の検証に戻ろう。

『言元梯』の「朱(アケ)」から「サケ」説だがなんとも微妙。そうには訛らないと思うが、肉がピンクなのは事実である。しかし鱒もピンクでありやはり微妙。『名語記』の2つめの説の「肉の赤色が酒に酔ったようであるところからサカケ(酒気)」も同様な説明で身の色が由来としている。

『日本釈名』『滑稽雑談所引和訓義解』『和訓栞』の説は「肉が裂けやすいから」となっている。…うーむ、焼くと身が裂けやすいという事かもしれないが、そんな身質の魚なんて沢山あるしその魚の性質そのものを表す名前になるか疑問。でもサケはほぐれやすくて食べやすいけどもな。しかし焼いた魚の身より命名なんてありえないので、生きた状態のサケが「裂けやすい」とする必要がある。だがそんな事はない。

『牛馬問』の「肉に筋があってはなれやすいところから」も同様に「肉が裂ける」説だが、「筋があって離れやすい」という表現となっている。

『和句解』の説の「海から川へサカサマにのぼる」は遡上する魚という点ではかなり正しい認識だが、川をさかのぼる魚はたくさん種類があるのでサケの唯一の特徴とは言えない。

『かたこと』説の「産卵の時に腹が裂ける」…実際のところ単純に産卵されて腹は裂けない。

最も古い時代の説である『名語記』の「稚魚の時から一尺になるまで胸腹が裂けている」と言う箇所は非常に重要だと思う。

これは「臍嚢さいのう」の事を言い表しているのではないか。

特にサケの稚魚の臍嚢さいのうは赤く、正に腹が"裂け"て中の肉が飛び出て見える。古代の日本人は「腹が裂けた状態で生長する。」と驚き観察して、稚サケの最も特徴的な臍嚢さいのうの様子から「裂け(サケ)」と命名したのだろう。

だがおそらく中世の時代では、サケの稚魚の臍嚢さいのうが「裂けた赤い腹の肉に見える」…という語源がすっかり忘れ去られてしまった。しかしまだ、少しばかり残った言い伝えの断片によって、「肉が裂けやすいから」とか「産卵時に腹が裂ける」とか「肉が赤い」とかのニアピン誤解していたのではないだろうか。

赤い身が裂けて飛び出ている様に見える

日本の古代では稚魚を「サケ」、親魚を「スケ」と呼んだ。

その由来は稚魚の臍嚢さいのうの様子と、デカい親魚の、瀬を蹴って飛び上がって遡る様子…まさにその魚をズバリと表す言葉なのではないか。

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