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釣り人語源考 〇ンポと銀宝

わたくし筆者は、重度の釣りTwitter中毒者である。
釣りTwitter界隈では「釣りミーム」とか「釣りあるある」「釣り鉄板ネタ」と呼ばれる、とある魚に対し「お約束」のクソリプが存在する。
あまり釣れることのないその魚が、釣りガールにたまたま釣れたりすると「何?このおさかな?」というツイートに対し、リプライがたくさん来るが、そのほとんどが「〇ンポですね」という伏字だ。
┐(´д`)┌ヤレヤレ

スズキ目ゲンゲ亜目の「ギンポ」は、他のゲンゲ亜目の魚たちと同じくドジョウのようなニョロニョロの身体を持つ魚だ。
春ごろに接岸し、テトラや沿岸の岩礁の隙間に隠れて生活している。
近年のテトラ穴釣りの流行で、サバ餌ブラクリ仕掛けなどによく食らいつくので最近特に目立つようになってきたが、一般人にとって生きているギンポを見る機会はほぼ無く、知っている人だけ「〇ンポ」と分かる、そんな知名度だ。
西日本では特に、この〇ンポが釣れたとしてもすぐにリリースされる名前も知られない雑魚の扱いである。

何このサカナ?
〇ンポです

しかし大東京の銀座や赤坂などに店を構える、超高級の江戸前天ぷら専門店に行くと、この雑魚である〇ンポが「超高級魚・銀宝ぎんぽ」になるのである。
われわれ庶民が「雑魚」と扱う訳は、「とりあえず刺身としての味の評価」と「処理の手間」に依存している。
ニョロニョロしていて大変、刺身にしてもそんなに美味くない…
そんな小魚は〇ンポだ。

しかし「江戸前てんぷら」という料理は、そんな雑魚を超一級の食材とするのだから非常に面白い。
癖のない白身と、独特の風味と旨味を持つ皮目。
開きにして天ぷらにすると、ふわふわさっくりの白身と深い味わいの皮が、衣の中で一体となって凝縮し、最高のてんぷらとなるのだ。
江戸前天ぷら職人の名人が著した『天麩羅物語』という本に、「この魚こそ天ぷらのために、この世に生をけた魚であるといえましょう。」とさえ言っている。
こんな「シンデレラストーリー」を地でいく魚は「銀宝ぎんぽ」しかいないだろう。

超高級天ぷら「銀宝」

なぜ〇ンポが「銀宝」と書くのか、そのいわれは分かっていない。
文献によれば東京近郊や神奈川での地方名で、『大言海』では「銀宝、下民ノ食トス。」、『魚鑑』では「近来は民間《しもさま》の食となりぬ、味ひよけれど下品なり。」とある。
〇ンポは庶民でも食べなかった下品であるが、江戸時代後期になると味が良いことが知られ徐々に食されていったことが伺える。
江戸時代の前期ごろ、なぜかとてもイメージが悪い魚であるとレッテルを張られていたようだ。

自分なりに「ぎんぽ」の「銀宝」という漢字と、その「悪いイメージ」、「江戸時代」ということからよく考えると、「ぎんぽ」という魚の語源は「宝永の丁銀」ではないだろうか。
まずその姿かたちがよく似ている…かも???
しかし丁銀には面白い歴史が残っているのだ。

宝永四ツ丁銀

さて「丁銀」を解説していこう。
教科書で習ったように、江戸時代は大判小判のような金貨は大名などが高額取引や贈答などで使用し、一般の流通や、庶民の暮らしには全く縁のないものだった。
商売の中心地であった大阪を起点とした日本全国の流通、そして庶民の暮らしで使うのは「銀」の合金を使用していた。
銀貨には「丁銀」と「小玉銀(豆板銀)」があり、丁銀は銀合金の延べ板である。
この丁銀は一定の価値になるように重量を計測して調整用小玉銀とともに紙に包まれ、大商人の高額商取引に用いられた。
丁銀の製作時期によって幕府の定めた銀の含有量が違うので、それぞれの銘柄によって品位が違い、銀座の両替商は重量から割合を厳密に計算して紙に包むことが主な仕事であったのだ。

江戸時代初期では各地の銀山の産出が安定していて、高品質な丁銀が流通していた。
しかしやがて銀の産出量の減少、海外貿易による銀の流出、幕府の莫大な財政支出による悪化によって、それまで流通していた丁銀を回収し、銅を混ぜて溶かし、銀の含有量を減らして数を増すようにする「改鋳」をたびたび行うこととなる。
そして宝永年間、度重なる災害による出費によって幕府の財政は底をつき、3回にもわたる改鋳が実施される。
これが「荻原重秀事件」である。


荻原重秀(おぎわらしげひで)は江戸時代の旗本出身の財政官僚である。
若い時から超優秀であるが、その手法は古い慣例を打破し理論と実践を重んじた現実主義の「リアリスト経済学者」であった。
近畿地方の検地では、地元世襲の代官の不正慣習による利権が横行し、さまざまな妨害により検地すら行われていなかったが、荻原重秀のアイデアによって他藩の奉行による厳密な検地の実施に成功し、重秀はその才能を認められ出世していく。重秀は将軍綱吉に提言し世襲代官から実力主義の代官官僚制へと改革を進めた。
佐渡金山奉行に任命された重秀は金山の再興も果たした。
当時佐渡金山はかなり採掘が進み、坑道内に水が溜まり産出量が減少していた。
そこで重秀は佐渡で得意の検地を行い、不正と利権によって少なかった税収を正して増大させ、その資金を坑道排水溝の整備に充てて佐渡金山を再興させた。
しかしその辣腕によって、旧態依然の人々からかなりの恨みを買っていたのである。

さまざまな改革を達成した重秀は、幕府の財政再建の任を一身に引き受けた。
荻原重秀は世界初のリフレ財政論の天才であった。
世界から2、300年も進んだ国家財政論を構築していた理論経済学の先駆者だった。
当時の江戸時代は、天下泰平の経済発展による通貨需要の増大、貨幣金銀の産出量が減少と貨幣の海外流出による貨幣の減少によって、市中に十分な貨幣が流通しないため経済が停滞する、いわゆる「デフレ経済」に陥っていた。
重秀は「国家の信用に基づく貨幣(現代の紙幣など信用貨幣)」を導入しそれまでの金本位制度から脱却すれば、幕府の財政を圧迫せずにデフレを脱却しインフレ成長経済に移行するという自らの理論に基づいて、まず慶長金・慶長銀の改鋳政策である「元禄の改鋳」を進め、更に寛永通宝を薄く改変した、通称「荻原銭」を流通させた。
単純にこれまでの貨幣を溶かし、2倍の銅を混ぜて再度鋳なおせば、貨幣は倍増となる。
改鋳するだけで幕府には膨大な資金が転がり込む。

非常に薄いことが特徴の寛永通宝「荻原銭」

更に質の低い貨幣に変換することにより、貨幣を溜め込んでいては資産価値が低下するので貨幣をより使うようになり、市場の通貨不足を解消し、デフレからインフレへ経済構造が変化する。
最新の研究によれば、元禄の時代は名目平均インフレ率は3%であったと推計される。
ターゲット論ではインフレ率2〜4%が最も経済成長し景気が良くなる数値である。
幕府の蔵から流れ出た金銀が、豪商の蔵へと貯まっていたこれまでの流れが、貨幣の価値の低下によって、蓄財から投資へと変わり貨幣が市場で流通し経済規模がさらに増大したと研究結果が述べている。
まさに「オギノミクス」といったところだろう。
荻原重秀の経済再建は大成功したのだ。


しかし「元禄の好景気」はやがて終わりを告げる。
元禄の次の宝永の時代、富士山噴火や各地の地震、江戸の大火など災害が発生する。
度重なる災害のため幕府の出費はかさんだ。
そこで重秀は成功体験によって失敗する。
「宝永の丁銀改鋳」を行ったのだ。

「紙幣をどんどん刷ってそれを配ればいいじゃない。」というMMT理論は破綻する。国家の信用を失うからだ。
同じく立て続けて改鋳を行い貨幣価値を下げ過ぎてしまって、宝永丁銀の「信用」が無くなってしまった。
もともと重量を量って価格を算出していた丁銀は、改鋳による質の低下による交換率が低下することになり、思ったほどの貨幣流通量の増大にはつながらない。
さらに「信用貨幣」は時代が早すぎた。
諸外国は未だ国家が信用できず、金本位制が基本で貨幣の金や銀の含有量こそが貨幣の価値であった。
朝鮮との高麗人参貿易の際、質の悪い宝永丁銀での受け取りを朝鮮が拒否し、仕方なく慶長銀と同レベルの銀貨である「人参代往古銀」を人参貿易専用として鋳造したことが起きる。
これに大激怒したのが新井白石である。

新井白石は朱子学を修めた学者であり、歴史学や言語学、そして文学者でもある。
小さい頃から聡明であったが、しばしば眉間に皺を寄せて激怒する事が多く、その皺の形から「火の子」と呼ばれていた。
身分の低い旗本の出身でありながら、6代将軍徳川家宣の側近として実質的に幕府の運営を取り仕切った。
新井白石は歴史学者であるので政治にも歴史を重んじた。
徳川家康の「貨幣は尊敬すべき材料により吹きたてるよう」という言葉を信じ込み、荻原重秀のリフレ理論を理解できなかった。
朝鮮に受け取りを拒否された質の低い貨幣とはまさに国辱であって、日本の貨幣の価値=日本の威信であった。

事件は「宝永四ツ宝丁銀」が前回の三ツ宝銀改鋳から一年余りしか経っていない正徳元年八月に、正式な詮議を経ず将軍の決裁も受けずに銀座の証文のみで断行された。
これに先立ち重秀は反対派である銀座の大黒常是を罷免する。このため四ツ宝銀には常是の極印が打たれていない。
1年後の改鋳開始直前、相次いで3回も立て続けに改鋳され、しかも正式な手続きをしない事に、さすがの将軍家宣もたまりかねて重秀に詰問した。
しかし重秀は「幕府の蔵は空でござります。改鋳以外に方法はございません。何度も申し上げていますので重ねて議することはありません。前々より計画し粛々と改鋳を行います。それで問題がありますでしょうか。」と開き直った態度で答えたという。
白石は大激怒!!! 将軍をないがしろにし、改鋳を行うは家康様に対する暴虐である!!!
病床に臥す家宣をたたき起こして、「重秀を罷免しなければ、重秀を刺して我も死す!!」と将軍を脅迫。それまで重秀を擁護していた家宣も折れてしまった。
重秀は正徳2年に罷免され、即白石によって宝永丁銀は製造中止となった。
重秀は絶食により自死したと伝わる。

高品位な慶長丁銀
銀80%も含まれる

その後の新井白石による慶長金銀の品質に戻す「正徳金銀」政策は、大失敗に終わった。
高品質の正徳金銀は人々が貨幣を貯めこむ結果となり、貨幣の流通量が減ってデフレとなって大不況となった。
白石の政治理念は「神君家康の言」ただそれだけである。
しかし白石は失敗を認められなかった。神君が間違うはずがない。
せっせと荻原重秀の悪口を世間に流したのである。
そしてそれに便乗したのが重秀に出世を邪魔されたと逆恨みする凡庸な世襲代官たちと、金山の利権を失った佐渡の役人である。
「荻原重秀は金山で莫大な裏金を蓄えていた!」と佐渡で噂が広まる。
「荻原重秀は検地で不正をおこなった!!」と畿内の代官たちが噂を広める。
そして白石は「荻原重秀は26万両の賄賂を受け取った!!!」と噂を広めたのだ。

8代将軍吉宗によって、白石はさっさと罷免となった。
しかし享保の改革は緊縮政策であり、経済はしばらく停滞することとなる。
いつしか元禄の経済政策は忘れられ、「宝永丁銀」の悪名だけが残ったのだ。

おそらく「銀宝」の由来はこの「宝永丁銀」に間違いないだろう。
「なまこ型」と呼ばれる銀の延べ板にそっくりなドジョウ型の魚体。
身体の模様は、丁銀に刻まれた極印にそっくりだ。
四ツ宝銀に至っては、銀20%、銅80%までになる品位の低下による、銅の色が強い丁銀は、この雑魚の体色と似ている。
本当はとても美味しいギンポを、ただの悪評というだけで蔑み、貶め、下品だとしたのではないだろうか。
可哀想な〇ンポは、やがて江戸の天ぷら職人にて再発見され「シンデレラ銀宝」となった。 良かったよほんと…

文字が刻印されているような模様に見えるでしょ?
でしょ?

「釣り人語源考 古文書の魚」にて「コバムヤケ」という魚を現代の和名である「ゲンロクダイ」に比定したが、これも同じく「評判の悪い”元禄小判”の色合い」からの命名だろうと推察している。


荻原重秀は、はたして筆者が若いころ日本史教科書に書いてあったように悪い役人ではなかった。
今は評価は全く真逆の「世界最初のリフレーション政策」と称賛されている。
現代の日本にも、自らの信じたデフレ化経済政策の間違いを受け入れず「アベが~!」とか「モリカケ~」やら「裏金~」と噂を言う人でいっぱいだ。
江戸時代と同じことを繰り返しているようで、なんとも興味深い。

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