見出し画像

発達障害のある人が、普通に合わせるよりも大切なこと

発達障害のある私が、子どものころを振り返ったとき、何より辛かったこと……

それは「平均点」を求められることでした。
「合格点」でも、ましてや「最高点」でもありません。

苦手なドッチボールを、人並みにできるようにがんばったり。
国語辞典が愛読書なのに、クラスメートと言葉を交わすのが怖くて、口をつぐむようにしたり。

普通の女の子に見えるように、本来の自分を見せないようにするのは、息を奪われるように苦しかったです。もう、窒息死しそうなくらい。

大人なった今でも、平均点を暗に求められて切ないです。
それでも、普通なんて幻にすぎないと、今ならはっきり言えます。


凸凹が激しいから、普通に合わせられない

発達障害のある人が、なぜ普通になろうとすると辛いのか。凸凹症候群と呼ばれるくらい、得意・不得意の差が激しいからです。

凹が目立つと落ちこぼれる

凹は簡単に伸ばせるものではありません。穴埋めしようとすればするほど、かえって劣等感のドツボにはまってしまいそうです。

私の場合は、おそらく発達性協調運動障害もあるため、ドッチボールをはじめとした球技は全くダメでした。ボールや周りの子に気を配りながら、手足を複雑に動かすなんて、どう考えても無理です。そうやって必死に考え込んでしまうから、ボールをぶつけられてばかり。「走るだけ」「跳ぶだけ」の陸上競技なら大得意だったのに、「球技だけ」が苦手だったなんて、本当に不思議ですよね……

凸が目立つと抑え込まれる

凸は伸ばそうと思えば、いくらでも伸ばせるもの。それでも、周りから嫉妬や無理解の嵐を浴びて、へし折られてしまうケースもあります。

私は国語辞典が愛読書だったくらい、ボキャブラリーは豊富だったにも関わらず、おしゃべりしたがらない子どもでした。口を開けば、難しい言葉がポンポン飛び出してくるから、周りの子が付いていけなかったんですね。今でもライティングは好きですが、世間的なガールズトークは苦手です。

自分のままでいられればいい

では、どうすれば普通という呪いから逃れられるのか。

「自分のままでいる」……もう、それだけでいいと思います。

ひと昔前に、「自分探し」というものが流行りましたが(今も流行っている?)、自分らしくなろうと必死にがんばるのも辛いですよね。自分は「ある」ものであり、「なる」ものではありません。

「発達障害のある人は得意なことを伸ばしましょう」という言葉を、見聞きしたことはありますか? 私はその言葉に共感しますが、その反面、それだけを求めるのは違和感があります。

私は大人になった今も、インターネットの国語辞典を愛用しているような人間ですが、

「文章だけ得意ならいいよ」
「ライティング能力さえ高ければいいよ」

と言われたら、きっと絶句するでしょう。私にとって言葉は大好きなものであり、人よりも優れていたいとか、他の能力よりも伸ばしたいなんて、一度も考えたことがないからです。言葉を一生かけて愛していきたい。ただ、それだけです。

不得意なことも、得意なことも、丸ごとひっくるめての私。そのままの自分が、大自然に抱かれて息ができるなら、それだけで満たされます。

普通という幻よりも、この満たされるような実感が、大切なのかもしれませんね。


【お知らせ】

※発達障害とコミュニケーションをテーマにした本を出版しました。詳しくはこちらの記事をご覧くださいね。

※本のプレゼント・キャンペーンを実施中です。


いいなと思ったら応援しよう!