第二十九話 「忠臣蔵騒動」
もはや、官吏には戻れない。戻らない
収監されたときから覚悟の上である。
商人になってみよう……。
十河信二、四十三歳。泥まみれの転身であった。
このとき、十河信二が飛び込んでいったのは、民鉄でも鉄道関連会社でもない。
映画界。
いまだ保釈の身で、裁判の準備にも追われていた。しかし、
「いっそキネマで一旗あげて、ア、みせようぞ~ッ」
などと、おそらく義大遊節風に唸りながら、単身、京都に乗り込んだ。
当時、京都は〈映画の都〉であった。
一本当てれば、一夜にして名声が轟き、巨万の富が入る。一攫千金を狙って大小の映画会社、独立プロたちがひしめき、栄枯盛衰を繰り返す。俳優、監督、脚本家、撮影技師らが全国から集まり、手配師、山師、高利貸し、ゴロツキなどの有象無象もむらがって……一言でいえば、ヤクザな世界そのものであった。
十河信二は、大の『忠臣蔵』好きである。どうせやるならば、やっぱり『忠臣蔵』がよかったであろう。十河が門を叩いたのは、『忠魂義烈・実録忠臣蔵』を制作中の牧野省三。大物プロデューサーであった。
後に「日本映画の父」と称される牧野省三は、当時、四十九歳。戦国さながらの京都映画界において、誰もが一目を置く親分的存在であった。
京都は、日本映画発祥の地である。
フランスのリュミエール兄弟がシネマトグラフを発明したのは、一八九五年。その二年後の明治二十六年に、リュミエール弟の友人であった稲畑勝太郎という人物によって京都四条で日本初の撮影が行なわれ、以後、京都は日本のキネマ勃興の表舞台となる。
牧野省三は、明治四十二年に『本能寺合戦』で監督デビューし、翌々年には『忠臣蔵』で主演の尾上松之助とコンビを組み、一躍、京都映画界の寵児となった。以後、日活を舞台に松之助・牧野コンビの時代劇は百数十本を数え、「目玉の松っちゃん旋風」を全国に巻き起こしていくのである。
牧野省三は、前衛好きでもあった。商業映画にあきたらず、次第に松竹や日活から離れ、大正十年には牧野教育映画製作所として独立し、その後、マキノ映画製作所、マキノキネマと名前を変えながら、独自の映画作りを模索する。阪東妻三郎、市川右太衛門など、この間、牧野に育てられた名優は数知れない。
そして、関東大震災が、映画界にも大激震を及ぼした。
蒲田の松竹、向島の日活などの大手撮影所が崩れ落ち、関東の映画人が大挙して京都入りして、たちまち京都映画界は下克上の様相を呈する。中小プロの悲しさで、マキノもトップスターの阪妻をはじめ三十人以上の看板俳優を引き抜かれてしまう。東京で官職を追われた十河信二が門を叩いたとき、牧野省三もまた、背水の陣に立たされていたのである。
そして、牧野は、「省三五十歳記念」と銘打って、『忠臣蔵』で勝負に出る。
牧野はそれまでに全通しの『忠臣蔵』を五本撮っている。大石蔵之助役でいえば、松之助で三本、阪東彦蔵、市川幡谷で各一本。つまり、十八番であった。
「牧野はもうあかんのやないか……」
という限界説もささやかれつつあったから、マスコミや映画関係者もこの鳴もの入りの新作『実録忠臣蔵』に注目した。駆け出しの映画中年・十河信二は、この京都映画界を揺るがす大渦の真っただ中に飛び込んだのである。
十河信二を映画に目醒めさせたのは、アメリカである。
映画って、スゴイぞ。
約二年間のマンハッタン暮らしでは、ヒマを見つけては映画館に通いまくった。
映画で青少年の教育ができるんじゃないか……と十河は夢見ていたらしい。牧野省三が教育映画に関心を持っていたことも、十河がその門を叩いた理由のひとつだろう。
むろん、十河はやみくもに日本映画界のドンに体当たりしていったわけではない。鉄道しか知らない中年男が、どうすれば映画界で仕事をさせてもらえるか。
目をつけたのは、テクノロジーである。
当時、世界の映画界で注目されていたイノベーションは、おもに三つあった。
無声映画のトーキー化。白黒映画のカラー化。そして立体映像化である。
トーキーに関しては、すでに技術的な見通しが立っていた。立体映像に関しては、まだ雲をつかむような夢物語である。いわゆる「天活」と呼ばれた天然活動写真すなわちカラー映画は、赤、緑の二色分解方式ではすでに実用化されていた。大正六年には東京日本橋に天然色活動写真株式会社が設立されて、翌年三月に『義経一本桜』が上映されている。しかし、赤、青、緑の三色分解天然色カラー映像は、欧米でもまだ試作の域を出ていなかった。
やるなら、天活だな。
当時、京都映画の周辺には、われこそは……と腕に自信を持つ自称「発明家」たちが集まっていた。このとき、十河信二が組んだのは、大阪出身の三十八歳の発明家である。名を亀井勝治郎。すでに京都周辺では「天然色なら亀井」として名が通っていたらしい。
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