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第十話 広狭軌間論争

 この頃、後藤新平が夢中になっていた大仕事は、広軌改築である。
 鉄道で、「軌間」という。線路の幅のことである。
 広軌は、軌間一四三五ミリ。狭軌は、一〇六七ミリ。これが日本で一般的に使う広/狭の軌間である。日本の鉄道は、軌間一〇〇〇ミリ以下の軽便線を除いて、主にこの二種類に限られる。
 世界的には、スタンダード・ゲージすなわち標準軌が一四三五ミリで、それより広いものをワイド・ゲージ、狭いものをナロー・ゲージという。なぜ一四三五ミリがスタンダードかといえば、鉄道のルーツというべきイギリスの鉄道馬車の軌間が一四三五ミリだったからである。つまり、日本でいう広軌は、世界的にはスタンダード・ゲージにあたる。
 ややこしい。
 しかし、日本の鉄道史を語る場合は、一四三五ミリの軌間を「広軌」というしかない。一四三五ミリか、それとも一〇六七ミリか。広いか、狭いか。この約三七センチの差をめぐって、激しい軌間論争が泥沼のごとき政争をともなって繰り返されたからである。いまさら、この日本における「広軌」を「標準軌」と改めることはできない。

 そもそも日本の鉄道は、明治五年の汽笛一声のとき、狭軌として出発した。
 明治新政府が鉄道敷設のための資金調達を委任したのは、ネルソン・レイという英国商人である。そのレイが顧問として使ったプレスリン・ホワイトという技師が次のように進言したとされる。
 「日本列島は山が多く、海岸線は入りくんでいます。曲線のとりやすい狭軌がベターでしょうね」
 狭軌は、オーストラリア、ニュージーランド、セイロン、南アフリカなどのイギリスの植民地鉄道で使われていた規格である。その植民地向けの狭軌鉄道一式をそのまま日本に持ち込んだほうがぼろい商売になる。という計算も、レイにはあったであろう。しかし、レイはまもなく、そのブローカー的な体質を暴露されて解任されてしまうのだが、レイの解任後も軌間は狭軌のまま追認された。
 明治新政府には、予算がない。鉄道開業を積極的に推し進めた新政府の参議は伊藤博文と大隈重信で、実際の工事と開業についての責任者は井上まさるである。彼らは、建設コストの安い狭軌が早期着工に有利と考えた。大隈重信にいたっては、軌間の差の何たるかをハッキリと認識しできていなかったとも伝えられる。
 無理もない。軍船建設のほうが大事ではないか……と、西郷隆盛も大久保利通も大反対を唱え、全国の不平士族たちも「外国から借金して鉄道を引く売国奴め」と伊藤や大隈を名指しで批難して騒いだ。実際、彼らには暗殺の危険すら迫っていたのである。軌間など二の次、三の次の話だったであろう。

 ともかくも、日本の鉄道は狭軌で走り出した。
 この狭軌サイズの軌間に、最初に異議を申し立てたのは軍である。

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