第二十話 それぞれの信念
十河信二の会計課長時代に、予讃線が郷里の伊予西条まで延びている。
予讃線のルーツは、明治22年(1889年)開業の丸亀-多度津-琴平間を結ぶ讃岐鉄道に遡る。十河信二、五歳。明治39年に国有化されて、西へ向かって延び、大正期を迎えて、西延のペースが加速される。大正2年に観音寺駅まで、大正5年に川之江駅まで、大正6年に伊予駅まで、大正8年に伊予土居駅まで……。そして、大正10年に伊予土居-伊予西条間が開業する。
父・鍋作の守る実家の最寄りの新駅は、「中萩駅」。
当時、中央官庁課長職の重みは、今では想像もできない。もちろん、四国鉄道局管内に絶大なる影響力を持っている。地元民にとっては、まさしく雲上の人であった。
むろん、「橋三年駅一生」の時代は続いている。最盛期といっていい。何よりこの会計課長自身が選挙というものに色気を持っている。つまり、
「中萩駅は十河駅だ……」
という話が当時から囁かれた。
ところが、奇妙なことに、この中萩駅は中萩村にない。大生院という隣村にある。本来なら「大生院駅」であろう。十河家と予讃線を最短距離で結べばわずか数百メートルだが、この中萩駅までは遠い。歩けば、四、五〇分かかる。
どうやら、こういうことだったらしい。
鉄道省のハリキリ会計課長は、もちろん、新居浜、西条間に新駅を作ることに奔走した。駅が出来れば、地元の経済は活性化する。ありがたいことではないか。だが、
「では中萩に……」
という話は一蹴した。自分の実家の近くに駅を……などという話は、死んでも聞きたくない。
新駅は、新居浜ー西条のほぼ中間点に決まった。付近一帯には大小の絹織物工場が点在していて、駅ができれば出荷量も増え、いっそう隆盛することが期待された。
しかし、駅名は「中萩」となった。
駅誘致に駆けずり回った地元の有力者たちが、新駅の実現に力のあった鉄道省のハリキリ課長に感謝の意をこめて、駅名だけ「中萩」としたらしい。
この予讃線の伊予西条伸延の4年前に行なわれた総選挙で、川上哲太という西条中学の一年先輩が政友会から立候補して、初当選を飾っている。子の頃、我田引鉄選挙戦が最も過熱している。おそらく「中萩駅」は、この選挙のとき、川上哲太が公約に掲げたものだったにちがいない。
さて、旅客課長となった種田虎雄も、十河会計課長以上の活躍ぶりを見せていた。
種田がアメリカ視察で学んできたことは、次の一言に尽きる。
鉄道はサービス産業である。
学んできた……というよりも、かねてから思い描いていた自説について、さらに確たる信念を持って実行しようと覚悟を新たにした……といったほうがいい。
「鉄道は、商売である。役所仕事といえども、本来なら、前かけをかけて仕事をしなきゃいかん。商店の番頭のように」
と、種田課長は力説する。鉄道は、まず何よりもビジネスでなければならない。サービスを向上させて「大衆のためのもうかる鉄道」を作ることが何よりも大事である。鉄道が大衆化すれば、おのずと乗客も増え、第一次大戦後の長びく不況も乗り切れるはずであろう。
種田旅客課長は、一等車をすべて廃止して、三等車を増結する。
枢密院や貴族院の大反対を押し切って、断行した。サービスは万人に平等であるべきではないか。一等車はガラ空きで、三等車はスシ詰めである。ごく一部の特権階級を喜ばせるより大衆にサービスを平等に提供すべきことは、採算上からも明白である。種田課長は、ついでに主要駅の一、二等専用の待合室もことごとく潰してしまった。
むろん、一等車に乗る権限を持った人々は、面白くない。この頃、正確にいえば大正9年すなわち一九二〇年に、鉄道院は鉄道省に格上げされている。初代の鉄道大臣元田肇の秘書官であった秋元春朝という子爵が、就任早々に次のように新聞発表した。
「東海道線に一等車を復活させる」
種田課長は、怒った。当局に何の相談もせずに大臣の個人秘書が勝手に発言をするなど、もってのほかではないか。さっそく、猛然と関係各所にねじ込んで、押し潰してしまった。
十河や種田は、仕事に飢えていた。
入省以来ほぼ十年近くも仕事らしい仕事を与えられず、干され続けたこともある。課長職を得るや、栓を飛ばしたシャンパンのように、泡を噴きながら猛然と仕事をはじめたのだといっていい。
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