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第二十二話 幻の帝都大改造計画

 後藤新平は、無類のアイデアマンであったと伝えられる。そのいかにも鋭利そうでカッコのよい頭から、こんこんと湯水のようにアイデアが湧きあがった。

 有名な逸話を紹介する。
 後藤新平が逓信大臣として初めて入閣した頃、東京市長の尾崎行雄が所用あって首相の桂太郎に面会した。尾崎の前に面会していたのは、後藤新平。ところが、尾崎が桂と話を始めてまだ十分もしないうちに、後藤が戻ってきて桂に何事かを耳打ちする。驚いた尾崎に、桂がこう言った。
 「ああやって後藤は度々戻ってくるんだよ。歩きながら、ひょいと何か閃くんだな。日に三度も四度も戻ってきて、新しい考えを話していく。そのうちの一つは、いい思いつきなのさ。だからオレはなるべく後藤に会うようにしているんだよ」
 後藤のアイデアは、凡庸ではなかった。まず、スケールが大きい。そして、多くの場合、時代の数歩も数十歩も先をゆくもので、したがって現実的とはいいがたく、しばしば荒唐無稽でさえあった。世間はそんな後藤を「大風呂敷」「遠眼鏡」とからかい、かつ愛したのである。
 その大風呂敷の最たるものが、このときの帝都震災復興計画だったといっていい。
 
 後藤新平はすでに一度、帝都東京の大改造計画を立案している。
 大震災が帝都を壊滅させたのは大正十二年九月一日だが、後藤新平はその年の四月まで、東京市長を二年半務めていた。当時、東京市は政争と利権の渦巻く伏魔殿といわれ、大臣級人材の政治生命を次々と奪っていた。後藤の前任者の田尻稲次郎は大がかりな疑獄事件に連座して引責辞任し、市議や職員など二十数名が検事局へ召喚されるという醜態をさらした。もはや党利を超えた大物しか務まらない。
 たとえば、後藤新平のような……。
 だが、さすがに大物すぎるだろうな……と多くの人々が思っていた。後藤新平には、次期首相という呼び声も高かったのである。しかし、後藤はあっさりと引き受ける。
 「一生ニ一度国家ノ大犠牲トナリテ一大貧乏籤ヲ引イテ見タイモノ」
 という名文句を吐いて、あえて火中の栗を拾った。この頃の後藤新平の異名は、「政界の惑星」。出処進退に神出鬼没のイメージが強かったからである。ともかく後藤新平は市長職の給与を返上して、この伏魔殿の建て直しに挑む。
 後藤新平に東京市長の大任を鳴物入りで引き受けさせた最大の理由は、帝都東京の都市としての貧弱さであった。
 「東京の行き詰まりは帝国の行き詰まりである」
 台湾民政局長官時代の台北、満鉄初代総裁時代の大連……。すでに後藤新平は、日本の植民地において欧米顔負けの壮大な都市造りを手がけてきた。その後藤の目には、チマチマと無原則に膨張する東京市は、「帝都」と呼ぶにまるでふさわしくない。利権漁りに汲々とする政治家と地主どもの見苦しい欲得の縮図としか、思えなかった。
 ヴィジョンのかけらもない。
 後藤東京市長は、さっそく「東京市改造八億円計画」をぶちあげる。
 「また得意の大風呂敷か」
 と、新聞がからかった。このとき後藤の大風呂敷に心底から共鳴し、身を粉にして協力しようとした男がいる。
 チャールズ・A・ビアード。
 ビアードは、一九二〇年代、三〇年代のアメリカ言論界をリードした論客で、ニューヨークの都市造りに市政調査会理事として指導的役割を果たした人物である。後藤市長は、この米人学者を呼び寄せて、東京をマンハッタンなみに改造しようともくろむ。ビアードは、来日中に足を延ばして台北と大連の街を視察し、後藤のスケールの大きな都市造りにあらためて感動して、すっかり後藤のファンになってしまうのである。

チャールズ・A・ビアード(49歳、大正6年撮影)

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