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ドラマ「私の家政夫ナギサさん」と、「逃げ恥」「凪のお暇」との関係 ―ジェンダーの呪いと、家事労働の人権侵害性

TBSドラマ「私の家政夫ナギサさん」が面白い。母からの「呪い」、ジェンダーの足かせに心折れた経験のある私としては、他人事として見られそうにない。このドラマが気になっている人、第1話を見て今後に期待をふくらませている人に向けて、私の考えたことを書いておきたい。

「私の家政夫ナギサさん」とは

「私の家政夫ナギサさん」(以下「わたナギ」)は、製薬会社でMR(薬の営業担当)としてバリバリ働いている20代の女性・メイの日々を描くラブコメディ。「仕事で輝く女性になれ」という母親の期待を背負って仕事に打ち込むあまり、散らかった部屋で荒れた生活をしているメイ。彼女を心配した妹が、メイの28歳の誕生日に有能な家政夫・ナギサさんによる家事サービスをプレゼントするところから物語は始まる。

家政夫と雇い主との女性の間にロマンスが生まれそうなドラマということで、「家政婦と雇い主の間にロマンスが生まれるドラマ『逃げ恥』の男女を逆転させたようなつくりだ」と興味を持っていた私。見始めてすぐに、「これは母の呪いから脱出しようとあがく女性を描いたドラマ『凪のお暇』のひとつの変化形でもある」と思い、一気に夢中になった。

逃げ恥と凪のお暇の公式サイトは以下。

以下、私がなぜ「わたナギ」と「逃げ恥」や「凪のお暇」との間に共通点を見出したかについて詳しく語ってみたい。

「わたナギ」と「逃げ恥」の関係

「逃げ恥」は、家事がひとつの労働であることを前提として、女性にモテないが高収入な男性・平匡が、高学歴だが(ゆえに)仕事のない女性・みくりを家政婦として雇うドラマだ。

互いに合理的に割り切った関係であったはずが、生活を共にするうちに互いの間にロマンスが生まれる。しかし途中、「では結婚しよう」となった瞬間に、平匡が結婚後のみくりの家事をなんとなく無償のものと捉えている価値観があらわになり、すったもんだになった。

結局はみくりと平匡の間で「ともに生きていくには、互いの間のそのときごとの繊細なすり合わせを繰り返していくしかない」と結論が出る。逃げ恥は、「人の共同生活を完全な合理性のもとで運用するのは困難、そこには必ず愛や情という不合理が混じる」ということを描き出している。

このドラマの面白いもう一つのポイントは、みくり・平匡の双方が、世間的な男女の典型的ジェンダーロールにスルッとは乗れないキャラクターであること。この「普通の恋をして普通の結婚をする」ができない組み合わせが、いわゆる家庭生活の孕む加害性や、男女双方に降りかかるジェンダーの呪いを描き出した

一方、「わたナギ」はどうか。わたナギも、家事がひとつの労働であることを前提としている点、男女双方が世間的な男女の典型的ジェンダーロールとは外れた生き方をしている点では逃げ恥と同じだ。

わたナギでは逃げ恥の立ち位置にひとつヒネリを加えていて、男女の役割が逃げ恥とは逆になっている。メイは「男のような女」であり、ナギサさんは「女のような男」。逃げ恥の平匡がみくりにうっかり家事労働を無償でさせようとして、自分の中のうっすらした偏見を漏れ出させてしまったことを鏡に映すかのように、わたナギの第1話ではメイがナギサさんに向かって「そんなに有能なのにどうして家政夫なんか」という一言を投げてしまう。

※ナギサさんの名前がどことなく「女っぽい」のも意識的な演出だろうと思う。

わたナギは、逃げ恥が描き出した「家庭生活の孕む加害性」「ジェンダーの呪い」を、男女の役割を一般的なものとは逆転させることで、こうした加害性や呪いをさらに鋭く描き出そうとしていると思われる。

わたナギ」と「凪のお暇」の関係

私が見るかぎり、「わたナギ」のメイも、「凪のお暇」の凪も墓守娘だ。

墓守娘とは、母親のことを重荷に感じる娘の立場の女性のこと。臨床心理士の信田さよ子氏の造語で、以下の書籍によって提唱された。

この書籍は2008年に発売されたが、その後のTwitterが普及する過程で一気に世間に広まった。

※ちなみに、私はこの墓守娘の概念普及の動きに過去のTwitterアカウントでけっこう濃く関わっていたりする。私自身が墓守娘で、この概念に衝撃を受け、原宿にある信田氏のカウンセリングセンターに通うこともした。

そこで、信田さよ子氏の監修で作られ、2017年に放映された墓守娘ドラマが以下。

実はこのドラマ、墓守娘当事者としては、母親が醸す毒、娘にかける呪いがリアルすぎた。見るとあからさまにストレス反応が出るのでほとんど見られていない。

その後、墓守娘を意識したんだろうな、という感じのドラマが世間にぽつぽつ見られるようになった。その中で私の心を掴んだのが、2019年放映の「凪のお暇」だった。

「凪のお暇」では、凪が「母の願うとおりに生きることに挫折した」「だから違った生き方を探そう」という状態で物語が始まった。

「わたナギ」のメイは、まだあまり、自分の中で母親の存在が呪いとして作用していることに自覚を持っていない。むしろ、「お母さん」を理想化し、求めていて、母親の求めるとおりに生きようとしているところがある。けれど、母親の望むメイの人生と、メイの望む自身の人生との間にギャップがあるため、挫折のまっさいちゅうだ。

奇しくも、凪のお暇の凪と、わたナギのメイは、同じようにドラマの最初で28歳の誕生日を迎える。28歳というと、多くの女性が周囲からの「そろそろ結婚を」という圧力と、キャリアとの間で深い葛藤を覚える時期だ。わたナギは「凪のお暇」の凪とは少し違った墓守娘のドラマと言える

※私の28歳の誕生日というと、母の毒が回りすぎていて履歴書には空白がかさむばかりだった時期。結婚のあてもなく、このままおばあちゃんになるのだろうかとかなり追い詰められていた。

ちなみに、凪のお暇については、こちらの拙記事がかなり読まれた。お好きな方はどうぞ。

わたナギが描き出す「ジェンダーの呪い」

「わたナギ」も「逃げ恥」も「凪のお暇」も、家事労働や結婚と仕事にまつわる男女の悩みに焦点を当てることで、世間に連綿と受け継がれている「ジェンダーの呪い」を描き出している。特にわたナギで重点的に描かれているのは以下だ。

・「女なら家事をするいいお母さんになりなさい」「男なら仕事で輝いて家族を養いなさい」
→女の立場や女の労働の価値が低く見積もられる。いっぽう男には、自分の能力によって女性を獲得することと、仕事でオーバーワークすることが強いられる

・「女だって仕事で輝きなさい」
→女にも仕事でのオーバーワークが強いられる。家事労働が誰に取り組まれることもなく取り残される。女は頑張れば仕事で輝けるいっぽう、健康がリスクにさらされるし、世間的に「女として可愛くない」とされて「結婚しにくくなる」

・「家事は女の仕事」
→家政婦の仕事は低く見積もられるし、家政夫は「男なのに女々しい」とバカにされる。いずれにしろ家事労働は「プロの仕事」として認められづらい

家事労働という「人権侵害」

ケア理論というのを学んで知ったのだが、家事は「ケア労働」の一種らしい。

ケア労働とは他者のケア(世話)を行う仕事のことで、育児・介護もケア労働だ。ケア労働はある種の無償かつ24時間レベルの全人的奉仕がなければ成り立たない。

たとえば、長年Aさんという高齢者を介護しているBさんがいたとする。Aさんはどんなときも「うー」としか言えないが、長年Aさんを介護していつもAさんのことを気にかけ、Aさんのことをよく知っているBさんは、どの「うー」が「お茶がほしい」なのか、どの「うー」が「おむつを替えて」なのかを聞き分けることができる。水分摂取やおむつ替えといったごく基本的な介護でさえ、お給料をもらっている時間だけ対象者に奉仕しようとするのでは成り立たないことがあるのだ。

ケアを成り立たせるためには無償の奉仕が必要という点で、ケア労働には本質的に、ケア労働者にとって人権侵害的なところがある。これはもちろん家事労働もそうだ。

こうした意味で、家事は本質的には人権侵害的だ。これが、家事が、主婦に任せようがプロに任せようがどこか人権侵害的になりがちな理由の大きな一つだと、私は考えている。ほかのケア労働者、たとえば介護事業従事者や保育士の人権が軽視されている案件もよく見かける。

つまり、そもそも人権侵害的である家事労働を、いったい誰にどれだけさせるのか、というのが現代に生きる我々の大きなテーマだ。だから、繰り返し形や切り口を変えて、ドラマなどのさまざまな作品で描かれるのだ。

今後を見守っていきたい

おじさん家政夫ナギサさんと、主人公のメイが今後どのような関係になっていくのか、逃げ恥と比較してどのような展開を見せていくのかが楽しみだ。

メイの求める「お母さん」が、メイの中で、母親とは性別が反対の「おじさん」の中に見いだされつつあるというのがすごく面白い。そして個人的には、たとえそれが仕事であろうが、人には「安心できる生活を作り出す人」との間に愛が生まれやすい、というところがグッとくる

いっぽうで、では似たようなケースがたくさんあったとして、すべての女性雇い主と男性家政夫の間にロマンスが生まれるかというとそうではないだろうし、ロマンスが生まれるケースと生まれないケースの違いについて想像をめぐらせてみるのも面白い。

ケア労働の問題点を浮き彫りにするという意味で、種類の違うケア労働に従事する人が出てくるドラマ…… たとえば男性保育士や、イクメン・家事メン・主夫の苦悩が描き出されるドラマも見てみたいなと思う。

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