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私を攻撃する人は、私の客でも友達でもない

そうはっきり思ったので、そのことについて書く。

先の記事では、「また攻撃されるのではないか」とビビって一部を有料にしてしまった。

しかし、そうやって自分を攻撃してくる人の顔色を伺っているうちは自分がきちんと傷から癒やされることはないだろうと思い至った。それで、自分の感じてきたことを思い切って一般公開で書いてみる。

私は、二重性を抱えている。「受けた傷に苦しみつづける人」であるいっぽうで「一般的に見て恵まれており、嫉妬されうる人」である、という二重性。

私はトラウマサバイバーであると同時に、現在は非常に「恵まれた」環境に置かれている。食うに困るわけでもなく、優しくて理解のあるパートナーを得ている。単著も出したし、ときどきメディアに顔を出させていただいたりしている。そうしたいろいろなことで、周囲から嫉妬を受ける。

トラウマサバイバーの多くは、長いこと加害的な環境で苦しみつづけ、そこから脱出することができない。トラウマを受けるというのはそういうことだからだ。トラウマは、人の立ち上がる力、希望を持つ力を奪うのだ。

だから、私のように加害的環境から脱して平穏な日常を手に入れた人間は、往々にして孤独だ。似たような立場の人間の母数がそもそも少ないからだ。

私の人生のテーマは「孤独」だった気がする。

思い返せば、私が「苦しんでいるが恵まれている」「恵まれているが苦しんでいる」という二重性を抱えていたのは、小さな頃からだった。

周囲よりも知的成熟が早く、実家が裕福だったという恵み。しかし、それゆえに理解者に恵まれず、孤独だった不幸。周囲からは単純に嫉妬の対象であった私の高IQと経済的環境の良さの裏には、簡単には語ることも理解してもらうこともできない苦しみがあった。

たとえば、自分の中での分野別の能力のばらつき。いつも成績がよく、頭の回転がずば抜けているのが明らかであるいっぽうで、コミュニケーション障害や協調性運動障害のせいで言動は突飛、動作は鈍くて体育でビリっけつ。

たとえば、きれいな高級住宅も中に入ってみればホコリとゴミだらけで、同居メンバーの中には精神疾患者と異常性格者がおり、父親はその対応を嫌って家に寄りつかない。

意識的無意識的な嫉妬、異質な者への戸惑いから、私は同級生からはいじめられ、教師からは虐待を受けた。自身の「普通でない」「正しくない」ところに関し、私は親兄弟からさえ執拗な叱責や攻撃を受けた。

成績がいいからといって調子に乗っている。頭はいいが性格が悪い。愛想がない、お高くとまっている。勉強だけできればいいと思っている。お嬢様だから世間知らずで、甘えん坊のわがまま。やればできるのに本気を出していない。大人をナメている。気合が足りない、努力が足りない。屁理屈をこねる。苦労知らずが甘えた戯言を言っている。

ずっとずっとそういうことを言われつづけてきた。私は、周囲の言うとおり自分が悪いのだと思っていた。「恵まれて生まれてしまった」自分の存在自体に罪悪感を抱えてきた。

小さな頃から続いた環境から離れてしばらくの間は、幸いそういった攻撃かを受けることがなくなり、ほっとしていた。けれど、本を出したりテレビに出たりするようになって、再び攻撃を受けるようになった。

攻撃を受けるたびに激しいストレス反応が出た。おそらく何かのフラッシュバックだろうとは思っていたけど、上に書いたような小さい頃からのトラウマと構造がぴったり同じだと気づいたのは、いいかげん本の出版から1年経った昨日だった。

恵まれている恵まれていないなどというのは相対的なものだし、普通とか正しいとか勝ち負けとかの基準も、その時代・地域の社会的背景によって恣意的に決められるものだ。人間というのはすべての人がいつもそれぞれ違った位相・タイミングで被害者・加害者でありうるし、それぞれの人の人生には、周囲に簡単に語れるものと、簡単には語れないものがある。だから、「誰々は恵まれていて、私と違って人生イージー、気楽なもんだよね、いやなやつ」なんて本当は言えないものだと思う。

だから私は、誰かに嫉妬を覚えてムカムカしたからといって、その相手を攻撃したり否定したりすることはすまいと思っている。羨ましいならまっすぐに羨ましいとだけ言って、その人に人格攻撃したりその人を否定したりすることはできるだけしないように、また、自分の中にある嫉妬の感情をきちんと同定して客観視したうえでものを言うように、自分を戒めてきた。

だって、置かれている状況がそれぞれ違うだけで、みな同じ人間として、理不尽に攻撃されれば傷つく。感じている苦しみを無視されればつらいし、理解者がいなければ生きる気力だって失うのだ。私は自分と同じような痛みを誰かに与えることはしたくない。

……こんなふうに考えられるのも、結局は私が「恵まれ」ていて、心身に余裕があるからなのだろう。私だってオットに助け出される前は、友人たちが結婚したり子どもを持ったり出世したりしていくのを見ていてものすごくつらかったから、つい攻撃したくなる気持ちはわかる。ヒトの心理のしくみとして、自分が理不尽な目に遭ったとき、手近なわかりやすい対象にその理由をこじつけることで心の安定をはかる、「合理化」というものがあることも知っている。自分と違って恵まれていると思った相手が「悪い人」なのだとしたり、その人が自分たちの恵みを奪っているというストーリーにしてしまうのだ。ワーキングプアの人たちが生活保護受給者や在日外国人にヘイトスピーチを行うのも同じしくみだろう。

だから私は彼らに人格攻撃し返そうとか、軽蔑しようとかいう意図はまったくない。そんなことは不毛だとわかっている。彼らには彼らの、私に攻撃せざるをえないような苦しい事情がきっとあるのだ。彼らからは一見して私の苦しみが見えないように、私から彼らの苦しみは想像できないから、彼らを悪者になどできない。

だけど、これぐらいは言っていいだろう、私は彼らに攻撃されてつらい、私が受けている攻撃は不当だ、と。だって私は彼らと同じひとりの人間なのだから。私は彼らの無料のサンドバックではないし、私の本が政府の発行する社会的インフラなわけでもない。

私は、自分のように孤独の中で苦しんできた人たちのために発達系女子の本を書いた。

私は、「助けられるべきなのに助けの手が届かなかった人」と半生をともにしてきた。その人とは私の母だ。彼女は、助けの手が遅れたために人生の大半を苦しみの中で送り、家庭を崩壊させ、娘の心身を蝕んでその人生の貴重な若い時代を奪った。

私はその無力感と怒りをこの本にぶつけた。助けられなかった母の代わりに、私の手で助けられる人があってほしい、誰かが私の手によって1ミリでも助けられることによって、母を助けられなかった私の痛む魂が成仏してほしい…… そういった意味で、この本は半分は私側からのニードで書かれたものだ。そこは自覚している。

けれど、私は本気だった。書くからには、本当にできるだけ多くの人が助かる本にしたかった。女性と子どもの支援を専門にしているソーシャルワーカーの手を借りて、必死で網羅的な資料を作り込んだ。助かってからの自分の結婚生活のことなんか、思い出すのも負担だしまた嫉妬を受けるだろうと思ったから私は書きたくなかったけれど、「読者に、この支援本を書く人がどんな人間なのかをわかってもらうため、興味と共感をもってついてきてもらうために必要なのだ」という版元と編集者の強い意向で、しぶしぶ半分を自分の手記にした。すべては、できるだけ多くの人の手に届く良い本を作るためだった。

結果、当事者の人からでなく支援者や専門家の人からも「役に立つ本だ」「救われた」「この本を手に支援を求めるアクションに出られた」という反応をもらい、私は本当に幸せだった。けれど案の定、私が優しいパートナーを得ているという点だけで本全体を否定する人もいて、そういう意見を見ると私はその都度本当にへこんでしまうのだ。

私は、オットが私の人生に現れる前の自分の気持ちと照らし合わせて、優しいパートナーや支援の手を得られていない人たちが私の手記を読んだら苦しくなるだろうことはよくわかっていた。だから、結婚することやパートナーを得ることだけが幸せへの道ではない、ということを伝えるためにがっちり一章を割いたし、本のすみずみまで、読者のできるだけ全ての人が置いてきぼり感なくついてきてくれるように、校了ギリギリまで何度も表現を修正しつづけた。

それでも、サブタイトルや宣伝文句を読んだだけで否定する人、読んでくれたはずなのに「結婚が幸せの唯一の答えと言いたいのかと思った」ということを言う人もいて、私は本当にしおしおのぱあになった。書いたことを読んでもらえず、書いていないことを読み取られることほど、書き手としてつらいことはない。ましてやあの本の文章は、安易に書いたものではなく、すみずみにまで最大のエネルギーを注いで精査し、あらん限りの技術と気遣いを詰め込んだものなのに。

苦しいのはわかるけど、苦しめられてることの怒りを私にぶつけないでほしい。百歩譲って、「私はこのように苦しい、社会はなんでこんななんだ、原が立つ!」と私に、社会に対する怒りをぶつけるなら耐えられるけど、「宇樹/宇樹の作品 はひどい」というやりかたはないんじゃないか。

上記の人たちはまだ、私に対する自分の嫉妬をはっきり自覚している感じだからまだいいのだけど、少なくとも「私の客じゃない」ことは確かだ。私はできるだけ多くの人に読んで役立ててもらいたいと思ってあの本を書いたけど、さすがにこういう人たちに、苦しみにさいなまれてまで、また私が苦しめられてまで読んでもらいたいとは思わない。私の作品とあなた、あるいは私の作品と今のあなたは単純に合わないから、何か別のものを役立ててほしい。あなたに合うものがきっとある。書籍、雑誌、誰かのTwitter、当事者会などなど…… そして、私のものに関しては、単に合わないなと思って通り過ぎてほしい。こちらだって、あなたに対して攻撃する意図を持って本を書いたわけじゃない。

悪いことに、私から見ていてこれは根っこに嫉妬とか本人の人生への不全感、社会への怨念…… つまり生きづらさがあると感じるけど、本人はそのへんを自覚していない感じで私に攻撃を向けてくる人もけっこうたくさんいた。そういう攻撃はたいていの場合、私に対する人道上のアドバイスや指導、叱責や怒りの形をとっていて、頼んでもいないのに、いや、抵抗を示していてさえ執拗だった。「あなたのために言うけど」という形をとる。

簡単にいえば八つ当たり、難しく言えばハラスメント。私が彼らに従うことで、彼らはたぶん(ほかではあまり埋まらないような心の穴があるから)効力感を得たいんだと思う。私には怒られると自動的に萎縮して罪悪感を覚え、とっさに謝ったりして従順な反応をしてしまうところがある。しばらくそういう関係性に必死に耐えたあとで「あれ、これって対等な関係性なのかな?」と気づいて離れた。相手のありかたを全否定するわけではない、こういう人たちにも、生産的な形でつきあえる人たち、関われる情報や場があるのだろう。ただし私とは別のところに、別のタイミングで。単純に、こういう人たちは私とは合わない、「私の友達ではない」。

以下、一般公開で書くか迷ったけれど、ビビって隠して、「攻撃に歯向かわない宇樹」のイメージを壊すまいとしているかぎり私も癒やされないと思うので、あえて書く。広報戦略? このさい知りませんよ。著者がどういう人間でどういうプロモをしようが、売れるときは売れるし売れないときは売れないし、売れなかったからといって私が死ぬわけじゃないし。

なんですか、じゃあ私はどうしたらよかったんですか、私があなたがたともろともに不幸で、加害から逃げられない可哀想な人のままだったら満足なんですか、そしたら「宇樹はいい人だ」と評価し、好きでいてくれたんですか。不幸で逃げられないままだったらこんな本書けませんでしたけど、こういう、後半にみっちり、支援につながるための網羅的なわかりやすい資料が入ってる本が世の中に誕生しないほうが嬉しかったですか。確かに私が書きたいから書いたし、感謝しろとは言わないけど、私が書かなかったらあと10年ぐらいは誰も書けなかったと思いますよ、それはわずかながら社会的な損失じゃないんですかね。私は自分が恵まれてるぶんをせめて少しぐらいは世の中に返さなきゃという信条のもと鶴の機織りみたいに心身削ってこれを書いたんですけどね、私はべつに安穏と自分の幸福だけ味わっておいてもよかったんですけど、そういうのあなたたちは嫌いなんじゃないんですかね。こうしたことに頭が回らないほどあなたも苦しいんでしょうし、そういうとこに強く共感する立場だからからこそこの本書いたけど、でもだからって私があなたが向けてくる攻撃を受ける筋合いはないですよね? ぐらいのことは言いたくなる。

私が望むのは、誰かが誰かに嫉妬による攻撃を向けないですむ社会、そのために、みんなが生きている中であまりにたくさん傷ついたりしないですむ社会だ。いまの人たちはみんなすでに傷ついてしまってるから、どうしても傷つけたり傷つけられたりしてしまうけど、少しでも早く、公衆衛生としてトラウマに関する知識とケアが広まってほしいと願っている。

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