優しい人は強い
人当たりの柔らかい人を「優しい」ということが多いけれど、
人当たりの柔らかさには、二種類あるように感じる。
一方は、自らのあり方が安定していて、
その上で他者をそのまま受け入れる柔らかさ。
もう一方は、自らのあり方はあまり関係が無く、
他者との関係性において波風が立たないようにふるまう柔らかさである。
その人の強さが感じられる柔らかさ、優しさは、
前者の方である。
ニコニコと穏やかな笑顔を見せている人が、
実は波乱万丈の生涯を送ってきたということは、
よく聞く話である。
特に、我々の前の世代の人々に多い。
筆者はたまたま、最初にインドに亡命してきたチベット人の先生方に会うことができた。
ご自身が何日間か砲弾にさらされて、銃撃が止んだ時に脱出してこられた先生もいるし、
お父様が殺されて、遺体も帰って来なかったと話して下さった先生もいる。
普段の穏やかさからは想像もつかない壮絶な背景を持って、静かに暮らしている。
そして彼らは、こちらから訊かなければ、
ご自身の方から苦労話をすることはまず無い。
先生によっては、
「別に。」といって、
訊いても話してくれないこともある。
自らの経験した苦労(という言葉で表現すれば)を自分の心に収め、
他者に心配や苦しみなどを表さない、という姿勢があることを、
筆者はチベット人の先生方から学んだ。
学んだ割には実践できていないところが、恥ずかしい部分でもある。
人は苦労を乗り越えると、器が大きくなるのだろうか?
苦労した経験を肥やしにできる人と、
苦労した経験に囚われて、何時までも苦しんでしまう人と、
ここにも分岐点があるような気がする。
苦労の経験をあるがままに受け入れる考え方を、仏教でも教えてくれる。
例えば、因果応報の教え。
今自分が苦しむのは、過去に行った他者を苦しめた業(行為)の結果である。
まいた種の果は、自ら経験しなければならない。
苦しくてもしょうがない。
といって自分を納得させ、経験をそのまま受け入れる考え方である。
あるいは、「苦しい」と感じる「苦しみそのもの」が何処にあるのかと徹底的に探究し、
「苦しみそのもの」が、指をさすように明確化できない時、
「苦しみそのもの」とは自分の思考が作り上げていたことを知って、
「苦しみの経験」を単なる「経験」として受け入れる考え方などである。
いずれにせよ、経験を受け入れて時間が過ぎた時、
大きな経験を乗り越えたという自信が、その人を強くするのだろう。
『あれだけ最悪の事態を乗り切ったんだから、
こんなのちょろい。』
と思えるベースを心に作ったことになる。
親に向かって、小さな子どもが泣きながらボコボコと殴りかかってくる時がある。
余裕のある親であれば、泣きながら手を動かす子どもを笑いながら見て、
抱えて守りながら、したいようにさせておく。
しばらくしたら子どもは疲れるか、
気が済むか、
暖簾に腕押しであることを子どもながらに悟って、
グズるのをやめるものだ。
親がそのまま自分を受け入れてくれることを知っていれば、
子どもも安心して、もとのように笑い始めるだろう。
強い人の優しさというものは、そういうものである。
自分を守るための優しさではない。
そんな優しさを身につけるためには、まず自分の懐を大きくしなければならないけれど、
どうしたら、それができるのだろうかと、
恵まれた時代に生きる筆者は考えるのである。
DECHEN
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