フィルムの後ろの光

幻灯機ではないけれど、
目の前でいろいろなものが輝き始めると、
それを輝かせているものが何であるかを、忘れがちになる。

目の前にあるものが素晴らしければ素晴らしいほど、
あるいは悲しかったり、苦しかったりするほど、
目の前に現れているものに集中し、入り込み、その状態から抜けられなくなることが多い。

一昔前の話になるが、映画館で映画が上映される時、客席の後ろで高くなっている壁の上の小さな窓から、フィルムの映像が光にのってスクリーンに投影されるところを見た。
(今も同じだろうか?)

小さな窓から光が放射線状に広がって、大きなスクリーン上に丁度良く収まるようになっていた。
筆者は最前列で頭を上向きにして、首を痛くしながら映画を視るのが好きだったので、
上映が始まりそうな時に誰かが光の前を横切り、頭を黒くスクリーンに映しているところもよく見た。
その影が、明るいスクリーンの光源が何処にあるかを教えてくれた。

映画が始まると、人々は映画の中に入り込んで、登場人物と一緒に笑ったり泣いたり、ドキドキしたりすっきりしたりする。もちろん怖い思いをしたりもする。
その時、多くの人はそれがスクリーンに映った色と形の変化によって形作られていることを忘れる。
もちろん、その映像がスクリーンに届くために、客席の後ろ上方の映写室から放たれる光があることも忘れている。

映画が終わってホールに電気がつき、明るくなれば、
もう光の中にいるので、暗い中でフィルムを映し出していた光があったことなど考えもしない。

映像として見えるものではないが、我々も交差する沢山のストーリーの中で生きている。
それぞれのストーリーには、ストーリーが成り立つ基になっている経験や考察がある。
一人の人間が、沢山の人と関係していくことで、それぞれ別のストーリーが生まれる。
友達の友達が知り合いだったとか、知らない所で会っていたとか伏線もいろいろあって、数えきれないほどのストーリーを、一人ずつが抱えている。

この一つずつのエピソードと、大きなストーリーの流れを映し出しているものは何か?
考えてみると、それも面白い。

自分の経験の積み重ねから作り上げた一本のストーリーは、我々に心があるから認められる。
逆に言えば、心が無ければ、我々は自分を知ることも無いし、他者を知ることも無い。
他者との関わりで学んだことや、更には自分が属する世界に対する世界観も、心があるから知ることができる。

映写室から放たれる光源は、明るく澄んだ強い光である。
光源自体には、特定の色や形を映し出す性質はない。
その前に置かれたフィルムに鮮やかな色合いが描かれていれば、鮮やかな色が映し出され、暗く鈍い色合いであれば、暗く鈍い色合いを映し出す。

我々の心も、明るく澄んだ強い光のようなものだ。
ありとあらゆるものごとを映し出すことができる。

フィルムによって明るい映画や、暗い映画が映し出されるように、
自分の持つストーリーによって、明るい人生や、悲しい人生を映し出す。

心自体は、何ものにも染まらない。
ただ自分の持つストーリーを映し出す、澄んだ光なのである。

ストーリーを書き換えるのは、我々自身の意志だ。
外の世界から自分に力を取り戻し、ストーリーを書き換え、フィルムを入れ替え、それに光を通す。

新しい物語を映し出す光も、我々はちゃんと持っている。



DECHEN
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