VRにもう一つの世界を見出すことについて
VRで遊んでいると、何となくVRをもう一つの世界のように感じてしまう。
現実とは異なる空間を見てしまっているような気になる。
あるいは、「バーチャルで生きる」といった理想を口にする。
現実とは非連続な世界がそこにあるように感じてしまう。
とは言え、現在のVR技術は、攻殻機動隊のようなフルダイブのVRとはかけ離れたものだから、実際にはヘッドマウントディスプレイに映し出されている映像を見ているだけにすぎない。
今の時点のVRは、よくできたディスプレイと、よくできたセンサーの組み合わせでしかない。
しかし、VRに「もう一つの世界」を見出している人に「ただの錯覚に過ぎませんよ」と言うことには意味がない。VRの強い感覚の前に、還元主義的なアプローチをしても仕方がない。
それは、テレビでアニメを見て楽しんでいる人に「キャラクターが動いているように見えますが、ただの静止画の連続で、本当にキャラクターが動いているわけではないんですよ」と言うくらいナンセンスだろう。
あるいは、世紀の大恋愛をしていると思っている人に、「それはアドレナリンとドーパミンとオキシトシンのせいですよ」と言い放つようなものかもしれない。
とするならば、アニメーションでキャラクターが動くのを認めるように、恋愛が存在することを認めるように、ヴァーチャルな世界が存在することも認めるべきなのだろう。それが、現実と非連続かどうかは置いておいて、仮想現実・ヴァーチャル世界は、確かに存在するのだ。
ここに、観念論の復活を見ることができるはずだ。VRの世界では、あらゆる物質的な制約から自由だ。
もちろん、この自由さは、ソフトウェアの上でのみ成り立つもので、そういった意味では限られた観念論なのだが。
しかし、あらゆるニセモノがホンモノとなり、あらゆる人の思いが現実になる可能性を持つことができる世界だ。
そうした世界がユートピアなのかはわからないけれど、VRの「あらゆる観念がホンモノになる」側面に惹かれる人は多いと思う。
大雑把に言えば、観念論の始まりはプラトンのイデア論だと言っていい。イデア論の洞窟の比喩は、VRの魅力に取りつかれた人の考え方に似ているような気がしなくもない。つまり、現実世界は真っ暗な洞窟の中にあって、本当の世界は洞窟の外(イデア界)にあるという考えだ。
しかし、それ以上に一部のVRC民、「現実世界は辛く苦しいもので、VRによって自分を救うことができる」といったようなこと考えている一部の人たちの考え方に近いと思っている思想がある。
それはグノーシス主義だ。
グノーシス主義の思想も、新プラトン主義の流出論に多大な影響を受けている点で、ある意味プラトンの傍流と捉えてもいいかもしれないが、こっちの方がより近いように思う。
とにかく「VRによる救済」、「ヴァーチャルで生きる」的な理念には、グノーシス主義の匂いがするのだ。
筒井賢治によれば、グノーシス主義の定義は、以下の3つである。
①反宇宙的二元論
②人間の内部に「本来的自己」があるという確信
③自己の本質を認識させる救済啓示者の存在
③までいってしまうと流石は神秘主義という感じがしてくるが、①と②については、けっこうそう感じている人も多いんじゃないだろうか。
現実とヴァーチャルの二つの世界を対立させて、片方の現実を悪(デミウルゴスの世界)だとする。【反宇宙的二元論】そして、現実の世界は「本当の自分」ではなく、VRで「なりたい自分」になっている自分こそが「本当の自分」であると考える。【人間の内部に「本来的自己」があるという確信】
こうして考えると、「VRに救われた」と感じている人の意識はかなりグノーシス主義的じゃないだろうか。
個人的には、初期の届木ウカ(とmillna)はかなりグノーシス主義に近かったように思っている。特に、届木ウカは、「ウカ様」として③に近いところまで行きかけていたような気さえする。
グノーシス主義は、サブカルチャーとメチャクチャ相性がいいのだ。とくに、70年代のカウンターカルチャー~ニューウェーブではグノーシス主義的なものがもてはやされた。フィリップ・K・ディックの『ヴァリス』なんかは、モロにグノーシス思想を意識した小説だ。『新世紀エヴァンゲリオン』はグノーシス主義を意識して作られているという説さえある。
こうしたVRヘビーユーザーのグノーシス主義的な思想が、VRの本質に根差したものなのか、それともアーリーアダプターたちのオタクマインドから出てきたものなのか、それがよくわからない。
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